posted at 23:44:57
posted at 05:53:54
posted at 05:00:42 @ceno_sougou いや、イデアが最初から散らかっている方は、楽でいいなあと思いますよ、ホントにね。ぼくの場合は多少、神経症的なところがありますので、ね。 posted at 05:02:49
@ceno_sougou 通常、可能性を考慮するのは政府の仕事です。しかし、それは「生きるか死ぬか」に関係して来ない場合だけの話で、「生きるか死ぬか」が現実的なものとして想像されるとき、可能性を判断するのは実際に生きたり死んだりする人間です。これは権利問題ではなく事実問題です。 posted at 12:47:27 .@ceno_sougou 世の中には、天秤の片方にそれが掛けられた場合、「合理的判断」という言葉が無意味になる地点があるのですよ。それは、大袈裟に言えば「世界の終わり」です。ラカン風に「現実界」と言い換えてもいいですね。 posted at 15:10:28 @ceno_sougou よく分からない反論ですね。当方は、「いまが世界の終わりである」と主張したことはない筈ですよ。 posted at 15:55:40 .@ceno_sougou いまが世界の終わりである(その差し迫った可能性がある)ことを、「誰」が判断できるのですか? そして、ある人が合理的判断に基いて「いまは世界の終わりでない」ことを判断できたとして、その人の判断が正しいことを「誰」が確認できるのですか? posted at 16:01:52 .@ceno_sougou 誰が哲学的懐疑論の話などしたのですか。当方は、現実にその状況にあるという、極めて具体的な話しかした覚えはないのですが。そして、当方は現在進行形の話しかしておりませんので、「どうしたらいいの?」「全部終わってから考察します」という応答は失当しています。 posted at 16:39:46 .@ceno_sougou 当方は、合理的判断がマイナスに働く状況にある、と申し上げているのではなく、何が合理的判断なのかを判断できる状況にない、と申しておるのです。無論、全部終わってから、セノさんが結果的に合理的判断をしていた可能性はあります。 posted at 17:18:12 .@ceno_sougou 平時というのは、全体の合理的判断と個人の利益が一致する場合のことです。非常時というのは、個人の利益が全体の合理的判断に一致しない(全体を最適化すると自分が死ぬ可能性がある)場合のことです。そして、非常時における個人の判断は、もはや合理的ではありません。 posted at 18:51:35 .@ceno_sougou 当方は逆に、現在は非常時なので、言葉の力で全体の合理的判断を棄却して、各自が生き延びるために自己の利益を図って貰いたいと思っていますよ。尤も、言葉に力なんかありませんから、これはただの戯言に過ぎませんが。 posted at 18:53:15 .@ceno_sougou 別に個々の判断を合理的と呼んでも構いませんが、何を以て合理的なのですかね。それを合理的と呼ぶなら、先ほどセノさんが挙げられた「デマに流された二次災害」など、同様に個々の判断として合理的ということになるのでは? posted at 19:06:51 .@ceno_sougou 断言しますが、言葉に力はありません。基本的には、呟くだけ時間の無駄だと思っていますよ(そして、いまは非常時なので、その不合理な判断に従っています)。「言葉の力」であるかのように見えるものは、実際は「偶然の力」あるいは「運の力」に過ぎません。 posted at 19:10:24 .@ceno_sougou 「判断力」という言葉遣いはですね、ある「正しい判断」乃至「公共的判断」を基準に出来る場合のものです。現在は非常時(と見做す人がいる)とぼくは思いますが、非常時には判断を公共化することが出来ません。 posted at 19:25:30 .@ceno_sougou 従って、「公共的基準」からの距離で「判断力がある/ない」という言葉遣いをすることが出来ません。すると、「判断力」とはどういう意味ですか? 情報の見極め程度のことは、どんな人でも実行しているのではないですか? posted at 19:28:30 .@ceno_sougou 以前、根暗さんとも問答になりましたが、ぼくは基本的に、世界はぼくの見ている夢だと思っていますから、これは寝言です。そんなに真剣に相手していただかなくても、ぼくは構いませんよ? (関係ないですが、セノさんも結構、議論好きの方ですねw) posted at 19:31:06 .@ceno_sougou そうです。事後的に、必ず判断は公共化されます。しかし「当事者」においては、それは公共化されないのです(後から第三者目線を使うことで、初めて公共化出来ます)。それは「科学」と呼ばれます。 posted at 19:35:17 .@ceno_sougou 端的に言えば、ぼくの言う「平時」とは、「科学」に従っておけば(確率論的)安心が得られる場合のことで、「非常時」とは、「科学」が超えられる瞬間です。「世界の終わり」とは、そのような異常事態です。 posted at 19:36:49 ではここでクエスチョン。「いまこの瞬間科学が超えられているかどうか」を判断するための基準として、「科学」を使うことが出来ますか? RT @ceno_sougou @Taroupho 科学が超えられる瞬間、というのならば、少なくとも僕の中では、原発問題に関しては科学はまだ超えられて posted at 19:51:08 .@ceno_sougou 残念ですが、個別の判断は必ず公共性の側に回収されます。科学で説明出来なければ、それを説明出来るものが科学と呼ばれるまでです。逆に、個別の判断は必ず(一瞬だけ)科学を逸脱します。なぜなら、目の前の出来事は個別的だからです。 posted at 20:01:26 .@ceno_sougou 科学は「間主観的」で「通時的」な出来事しか説明出来ません。しかし、自分に差し迫っているのは「主観的」で「瞬間的」な現実の出来事です。重ねて言いますが、「生きるか死ぬか」とは、そういうことです。 posted at 20:03:56 .@ceno_sougou 本当は常にそうなんですけどね。ただ「死」が差し迫っている場合にしか、普通の人はそのことに気付かない、というだけです。ですから普通は、逸脱があっても人は科学に従います。「非常時」というのは、その「信憑」が広範囲に渡って機能不全に陥ることです。 posted at 20:13:49 .@ceno_sougou 「現実的」と言えばいいですか。これは客観的時空間上で計測された「目の前」「一瞬」の話ではありません。それら全体を可能にするものとしての「現実性」に対する気付きの話です。ラカン的には「狂気」の話です。 posted at 20:16:54 .@ceno_sougou 同様に、「自分がいままで知っていた科学」は常に、「自分がいま知っている科学」の内部における「自分がいままで知っていた科学」であり、それは「自分がいままで知っていた科学そのもの」ではありません。その質的相違を、科学は常に完璧に回収するのです。 posted at 20:26:01 .@ceno_sougou 申しわけないが、当方の主張は何でしたか? セノさんが何に対して反論されているのか分かりませんが、当方は「科学サイド」なる仮想敵と戦っていた覚えはないのですが。。。 ぼくは具体的な話しかした記憶がないです(議論になるまでは)。 posted at 20:28:36 .@ceno_sougou それは当方の主張ではありませんね(どちらかと言えば寝言の方です)。当方の主張は、自分を「当事者」だと見做した人々においては今は「非常時」なので、それを「第三者目線」で批判することは不可能だ(従って、危険ならば環境管理しろ)、というものです。 posted at 20:38:35 .@ceno_sougou いえ、書き間違えられたことは了解済みの上での返信ですよ。最初に書きましたが、ぼくは権利問題ではなく事実問題の話をしています。「自分を当事者だと見做す必要があるかどうか」ではなく、「現に一定数の人々が見做している」という話です。 posted at 20:44:54 .@ceno_sougou 追い討ちを掛けるようで申しわけないが、(∃x)Fx の否定は (∃x)¬Fx ではありませんよね。当方は話を全称量化する気はさらさらなく、仰る通り人それぞれなので、人それぞれであること位は認めないと何も始まらない、ということに尽きます。 posted at 20:55:45 .@ceno_sougou 了解致しました。当方のもともとの呟きは、逆の意味で「その違いを何時の間にか乗り越えてしまう」人が余りにも多いので、注意喚起しただけのものです。では、この件は一応終わりということで。 posted at 21:02:34
posted at 12:49:03 .@ceno_sougou なるほど、(1)論理的な誤りに対して怒りを感じる(べきだという倫理的要請がある)。(2)相手の主張は論理的誤りを含んでいる。従って、(3)相手に対して怒りを感じる、という論旨ですね。 posted at 12:55:41 .@ceno_sougou しかし、ここで「相手に対する怒り」というのは、相手が論理的な誤りを犯していることに対する怒りなのでしょうか。そうでないとすれば、なぜ「相手を論理的に批判する」という過程が必要になるのでしょうか。 posted at 12:57:26 @ceno_sougou この過程を踏まない場合は分かりやすいのですよ。ただ、世間では踏んでいることが多い気がして(人殺しの例ではなく、例えばTogetterなどでの批判合戦で)、そのことが不思議だなと思ったのです。 posted at 13:08:38 .@ceno_sougou ただ、「論理的破綻」て、世間では「怒りの対象」にならないものの代表格ですよねw 数学で式変形を間違えた生徒に、先生が「誤りを指摘」することはあっても、「激怒する」ことは余りなさそうです。それが一方では、怒りの強力な原因になる、というのは、やはり不思議。 posted at 13:17:59 .@ceno_sougou どちらかと言えば、「論理」そのものがそれほど「論理に傾倒」してはいないのではないか、と思う今日この頃です。むしろ「論理」自体が、ある程度までは「科学的(=反証可能性がある)」ものなのではないかと。 posted at 14:37:29 .@ceno_sougou いえ、推論規則の取り方なども、場合に即してのものだと思います。基本的にはモーダス・ポネンスがあれば必要充分ですが、それを取るか取らないかも実は任意だと思いますので。 posted at 14:44:05 .@necratallo 氏と @ceno_sougou 氏の議論もまとめて読みたかったのでトゥギャりましたw http://togetter.com/li/108662 posted at 15:56:04
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last update 05/28 14:09
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