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» @kohsen
チャーマーズが提供する「意識のハードプロプレム」なんてものは本来、存在しない。それは問題の立て方自体が根本から間違っている。意識は脳ではなく素粒子内部で発生しているのだ。問題は、そこからどうやって脳という器官までたどり着くかである。 posted at 11:41:08 4次元が過去のイマージュを把持しているのであれば、一つの花を見る時、過去に見たすべての花の認識がその花の認識を背後で支えている。事物はそうやってすべての事物を巻き込みながらその個々の厚みを増していく。生きた奥行きとは本来そういうものだ。 posted at 11:32:34 奥行きをあるがままに受け入れると宇宙の果ては自分の背中であることが直観される。その{±∞}の結合点を見出すと内部と外部が反転した空間が見えてくる。そのとき慣れ親しんだ3次元は眼差しを射影線とする実3次元射影空間に見えてくる。3次元の位置認識は4次元空間における射影である。 posted at 11:22:00 奥行きはシュタイナーのいうエーテル体と深い関係を持っていそうだ。奥行きは過去を現在との共存という形で把持し、記憶を集積させている。自他を巡って奥行きを回転させた集合は4次元において物質の基礎的形状となる3次元球体を象っている。幅と奥行きは物質体とエーテル体のような関係にある。 posted at 11:05:18 検索をかけてみて、奥行きについて思考している人たちがあまりにも少ないのに驚かされた。主立ったメンツはメルロポンテイ、ドゥルーズ、ギブソンぐらい。日本では船木さんのみ。延長感覚の支配力というのは相当なものだということを再認識。 posted at 10:44:13
@onomaro ヴィーナストランシッド、強烈だね、これは。冥王星の働きが「死」から「再生」へとシフトチェンジするサインじゃないかなぁ。金環食は見れなかったけど、これは見たいっす。。 posted at 23:10:19 社会主義的でも、自由主義的でも、宗教主義的でも、科学主義的でもないような全く新しいアーナキズムの思想的基盤が必要だ。今求められている「理想」とはそのようなものだろう。 posted at 13:40:51 ん〜、困ったぞ。となると、国家の便益のために生命の自由を犠牲にする全ての権威は否定されなければならない——というあの自由主義的アナーキズムが掲げるスローガンも資本主義が生産する極甘口の一製品のPRにすぎなくなるのだろうか。 posted at 13:39:12 政治家と言えども同様で、コンサバ味か、リベラル味か、お好みに合わせてどうぞ ! というわけだ。 posted at 13:37:01 もともと政治的主体があるなんて思っていること自体が幻想で、今や資本主義の世の中で生きる「わたし」は社会の生産システムから吐き出されてくる「made in Oedipus」のレッテルを貼られた缶詰のようなものでしかない。 posted at 13:36:07 政治家たちの神は一体どこから降りてきているのだろう。まずは国家、そして貨幣、背後に宗教ということにでもなるのか。国家-貨幣-宗教連合。強烈だな。まさにオイディプスたちの響宴。 posted at 13:34:36 世の中を変えたいのなら政治家を目指すのではなくゲバラのような革命家を目指すべきだ、と昔ある友人が言っていた。言われてみれば確かにそうだ。一度権力を握った人間が自ら権力を手放すなんてことはありそうもない。だから政府というものはいつの時代でも保守でしかなく革新政府なんて存在しない。 posted at 13:32:58 「君の言うことは理想だ。ここは現実を踏まえないと」――いつの時代でも多数派と呼ばれるのはこういう台詞を常套句とする人たちだ。しかし、世の中を変えてきた人たちは理想に向かって一心で動いた人たち。この台詞を吐いた時点で、少なくとも政治家としては失格。 posted at 13:28:53
しかし、望むと望まざるにかかわらず科学はもうすぐその要請に迫られてくる。もうすぐ。 posted at 15:30:27 道徳は物質と精神を分離したがる。そして、事実、体制は世の中をそのようにアレンジメントしている。しかし、物質と心は僕らの予期せぬところで繋がっている。倫理の沸き出し口はまさにそこなのだ。もちろんその繋がり方は今の科学では分かっていない。 posted at 15:25:00 科学的価値観が説得力を持てば持つほど倫理の根拠は薄弱になり、世界は荒廃していくに決まってる。と。それがたぶん世間一般の常識だろう。しかし、これもまた道徳が仕掛けているワナだ。 posted at 15:22:50 科学が倫理的価値に根拠を与えることなど不可能だとたぶん誰もが思うに違いない。モノの世界と心の世界は全く別ものなのだから、人間の善悪を科学が判断することなんてできるわけないない。ましてや科学の屋台骨は唯物論だ。 posted at 15:22:18 でも、僕はそれが科学の中から現れてくると考えている。いや、科学しか道徳の体制を駆逐できないのではないかと。だから僕にとってヘルメス知とは科学のことである。もちろん、そこには反転のスパイスが必要とはなるが。。 posted at 14:57:15 倫理は果たして道徳に反撃を開始できるのか。そのためには倫理の根拠を見出さないといけない。倫理を永遠の必然性として自然に受容することができる精神が必要なのだ。それは哲学者たちが長きにわたり挑んできたテーマでもあるのだけど、もはや哲学はそれを諦めた(かのように見える)。哲学の死だ。 posted at 14:53:35 スピノザにとって、これら三種類の人間たちは順に[奴隷]と[暴君]と[聖職者]であり、彼らが三位一体となって道徳の体制を確固たるものにする。 posted at 14:42:29 道徳の体制は強烈だ。スピノザはこの体制を支える三種類の人物を挙げる。まずは悲しみの受動的感情にとらえられた人間たち。次に、こうした人間たちを利用して自己の権力基盤とする人間たち。最後がそうした人間たちに憤慨したり、嘲笑を浴びせかけたり、同情したりする傍観者的な人間たち。 posted at 14:41:03 その慎ましさゆえに、倫理はいつも道徳に押さえ込まれてしまうのだが。。 posted at 14:35:25 一方、人の心の中には「汝、そんな善は為すなかれ」と叫んでいる声がある。こうした声を僕は道徳と区別して「倫理」と呼んでいる。倫理もまたその根拠が不明だから超越的であることに違いはないのだが、倫理には全体だけではなく部分のことを考える慎ましさがある。 posted at 14:34:42 道徳というものには何一つ根拠がない。それは超越的に天下ってくる『汝、善を為せ』という命令に等しい。国家であれ、社会であれ、組織であれ、人間がひとたび集団に属するや否や、こうした超自我的な号令があちこちに響き渡る。 posted at 14:32:36 道徳とはルサンチマンであるとニーチェは言った。それは分かりやすく言えば、娼婦に石を投げつけること。娼婦が美しければ美しいほど、石はその数を増す。こうした風景は今も世間のあちこちで見ることができる。聖書の時代から何も変わっていない。 posted at 14:29:24
地球がデュオニソス一色となった太陽の下に照らし出されるとき、その陽光は人間を超人へと変身させていく。超人とは始源に立つ者。永遠回帰の車輪が再び音を立てて回り出し、万物はその根底から打ち震え、新しい創造の螺旋をその内部に迎え入れることだろう。 posted at 21:17:23 「22」は「13」の異名でもある。その意味で、古い王である「13」は間もなく退席を余儀なくされるだろう。「13」の退席とは裏を返せばオシリスの14番目の器官の出現を意味する。幼きゼウス、デュオニソスが目を覚ますのだ。 posted at 21:07:12 太陽の中では「11」の表裏の抗争が起きている。表の「11」がアポロンとしての太陽ならば、裏の「11」がデュオニソスとしての太陽である。現在、「22」という聖数が両者を調停しているが、間もなくこの対称性が破られるのではないかと考えている。 posted at 21:02:40 アウグストゥヌスの矢の上の一点一点に接しているアイオーンの円環を見出すこと。そこにほんとうの未来がある。 posted at 12:19:00 人間の現在は言語の雨雲で覆われている。未来予知という言葉をよく味わってみるといい。そこではより一掃、雲の厚さが増してはいないか。スピリトゥスは雨雲の切れ目から時折、顔を覗かせる青空だ。そこからアウラの光を入射させている。未来予知がスピリトゥスとは真逆のものであることは一目瞭然だ。 posted at 12:17:04 辺り一面にアウラが舞い降り、電車の中の風景が一変する。こうした感覚の方が未来を予知する能力よりも遥かにスピリチュアルだ。なぜなら、それはもう現在の範疇ではないからである。そこには人間の過去も未来もない。いや、人間さえいないように思える。 posted at 11:59:22 スピリトゥスの時間というものがあるとすれば、使い古された言い回しではあるが、それは瞬間の中に垣間見える永遠(アイオーン)のことだ。たとえば、帰宅途中の電車の中。夕映えに自らをバニラ色に染めた雲が大空の中をゆっくりと流れて行く。そんなとき時間は止まる。 posted at 11:54:28 未来予知に関心がないのは、それもまた現在の範疇だろうと思えるからだ。現在のために過去のみならず、未来までもが利用される。なんというエゴイスティクな能力。こんなもはスピリトゥス(聖霊)とはおそらく何の関係もない。 posted at 11:43:57 過去、現在、未来。時間を三つの領域に分けたとしても、結局のところ人間は現在によって定義される存在。過去も未来も現在における想起か、予期かの違いでしかない。所詮、すべてがアウグスティヌスの矢の上である。 posted at 11:36:12 N誌の原稿の締め切りが間近。今回のお題は『未来予知』だそうな。オレは預言には多少の興味はあるが、予知、予言の類いには一切関心ナシ。しかし、N誌の社長には恩義がある。さて、何を書こう。。 posted at 11:27:36
【訂正】ドゥルーズに出会ったのは2001年でした。ペコリ。 posted at 13:32:10 なのに現状はみんな、仲が悪い。これら三者の調停を何とかしないといけないと、勝手に思っている。殻が割れないとひな鳥は死んでしまうから。 posted at 13:30:22 殻を割るという目的を。 posted at 13:28:25 この喩えで行けば、外在的思考という意味で現代物理学が親鳥で、同じく内在的思考という意味で現代哲学がひな鳥に当たる。もちろん、現代哲学と同時に大衆の霊性運動として展開されてきた現代のスピリチュアリズムをひな鳥の仲間に入れてもいい。つまり、これらすべてはみんな同じ目的を持っている。 posted at 13:27:54 シマネトリコを見ながら思うのは、物理学と現代哲学は「啐啄同時」(そったくどうじ)のような関係を持って思考を進めているのだと思う。「啐啄同時」というのは、ひな鳥が卵から孵るとき、卵の殻を割るために内側からひな鳥、外側からは親鳥が同時に殻をつつくことを言う。 posted at 13:23:59 いろいろな思想を渉猟していくうちに、結局、ブチ当たったのがドゥルーズだった。ドゥルーズに出会ったのが2011年だったから、大森からドゥルーズにたどり着くまで10年を要したわけだ。OCOT情報のせいでトンデモなく面倒な世界に首を突っ込んでしまったものだ。まっ、楽しいけど。。 posted at 13:19:55 そのことを解明するのが本来の哲学の仕事だろうと思った。そして、自然と現象学へと導かれいったのだけど、現象学も今ひとつ。構造が不明瞭で、時代もあるが、物理学との関連が少ない。これではOCOT情報にある素粒子=無意識構造のナゾをひも解くヒントにはならない。。 posted at 13:16:33 大森は科学的世界観はこの見え姿一元論にデカルト的世界観(主客の二元化)が重ね書きされて生まれてきたたものであり、それは世界を死物化していると説いていた。しかし、単にデカルト的世界観を批判しても仕方ない。問題は立ち現れの一元から、どうして主客が分離するような事件が起こったのか—— posted at 13:10:05 知覚正面。これは普通に言えば視界、もしくは視野空間のことである。90年代初め、僕はこの大森哲学に多大な影響を受けた。というのも、——「前」が主体自身——というOCOT情報と同じことを言っているように思えたからだ。 posted at 13:05:29 知覚正面という言葉はもともと大森荘蔵という日本を代表する哲学者の言葉だ。大森の「立ち現れ一元論(もともと自然とわたしの間にはいかなる境界もなく、自然即我であり、主客不可分であるという考え方)」ではこの知覚正面という言葉がキーワードになっている。 posted at 13:00:08 庭のシマトネリコを見ながら再び知覚正面について考えた。天気がいいのに何をやっとるねんコイツ、と思われるかもしれないが、わたしの場合、気を抜くとヌースの渦の中に引き込まれる。困ったもんだ。 posted at 12:54:20 今日は定例の庭掃除。天気がよくて気持ちがいい。終わったあとのアイスコーヒーとアメリカンスピリッツの一服がまた格別。ヌースな時間に浸れます。 posted at 12:46:56
——もし、世界最終戦争というものがあるのならば、その戦いは核戦争などといった小規模のものではなく、存在世界全体とその外部にあるこの不気味なものとの戦いになるだろう。 posted at 12:39:22 原子力という技術はその意味で人間精神の破壊を加速させるために出現している存在の外部にある何か全く別の力である。 posted at 12:38:38 それは、時空においては素粒子の崩壊、並びに、それらの壊変として現れる。放射能だ。人間精神の存在からの逸脱。それが放射能の本質と考えていいと思う。 posted at 12:36:51 当然のことながら、この忘却は存在にとっては堪え難い苦痛となっていることだろう。そこで存在はこの忘却によって欠落した自らの身体性の奪回を諮ろうとする。つまり、存在、自らが消失していく眼差しを補おうとするのだ。 posted at 12:35:35 しかし、残念なことに、今の僕たちの視線はまるで夢遊病者のようにして時空の中をさまよっている。そこには何もないと言ってもいい。なぜなら、そこには眼差しがないのだから。眼差しの身体の忘却。これは存在の殺害に等しい。 posted at 12:28:06 そして、こうした沈み込みの身体こそが科学者たちが「素粒子」と呼んでいるものだと考えてみよう。そうすれば、「見るものとは見られるものである」というあの神秘家たちの達観が、はっきりとした知性のもとに浮上してくるのが分かるはずだ。 posted at 12:26:28 眼差しによって構成された身体の中では宇宙はこうして一点の中に沈み込んでいる。 posted at 12:25:32 眼差しは知覚的事実として、一切距離というものを持たない。それは数学的には射影のようにして無限小空間の中に縮約されている。ちょっと想像してみよう。前後も、左右も、そして上下も無限小にまで潰された空間の姿を。それは時空上では極小の点となって出現するしかないのがすぐに分かるはずだ。 posted at 12:24:47 そして、こうした身体性の一部として時空が作り出されているのだ。 posted at 12:23:47 直観すべきことは、こうした諸々の眼差しの種族たちは時空に存在するものではないということだ。左右からの眼差しによって奥行きが幅に変えられるのならば、むしろ、こうした眼差したちは時空よりもメタな空間で活動している僕ら自身の身体性だと考えなければならない。 posted at 12:23:25 奥行きが眼差しでもあるというのは誰にもすぐに分かる表現だと思うのだけど、奥行きのみならず、幅や高さの中にもまた、その方向を奥行きとして見ている眼差しが自分の中にあることに気づこう。 posted at 12:21:59 そんな空間は「虚無」でしかない。 posted at 12:20:48 奥行きとは言い換えれば、眼差しのことだ。空間が存在として開示するのは、空間が眼差しの充溢として変容を遂げたとき以外あり得ない。その意味で僕らはまだ存在としての空間に接していない。妙によそよそしい空間。命が何一つ吹き込まれていない空間。そして、眼差しが存在しない空間。 posted at 12:20:16 空間をモノの容器のように見立てるのが僕らの常識となっているけど、そういうリアルはもう終わるんじゃないかって思っている。こうした常識は空間を幅でみようとする無意識的な欲望に駆り立てられているだけだ。何度も言ってることだけど、空間の根源的性格は幅ではなく奥行きにある。 posted at 12:19:25
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last update 06/02 22:01
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