先刻@capita_fさんが言ってたのはこれねたぶん。 平等ゲーム 桂 望実 http://t.co/k9nxEXZ posted at 02:52:09
@capita_f 私も良い勉強をさせていただきました、こういう折に触れて御仏の教えに触れ、語るために調べる、勉強すると言うことも御仏縁、御法縁といって良いと思います 御縁を下さって誠にありがとう御座います。まあ折角ですから、同じ問いをご家族になさると喜ばれるかもですね posted at 02:50:55 なるほど。僧の責任です。現代は 前述した檀家制度の弊害で多重信仰・儀礼教(つまり信仰といってもお付き合いだけの形だけ)になっているのです。そこを見ると、事実そう言う節があります。QT @capita_f 救われることが分かっている状態では人々の行動に無責任さが生じるのでは? posted at 02:47:03 @capita_f 聖職者に関して言うならば 昔は文盲が当たり前の時代でしたから、僧を殺すということはすなわち図書館(というより、金銭至上主義の現代で言えば金庫に例えるとわかりやすい)が1つ2つ爆発するのと同じ事 と捉えるのが妥当ではなかろうかと posted at 02:40:30 @capita_f まず十八願というのは阿弥陀仏のお言葉(誓願)です、主体はそこにあります。親鸞聖人の言葉ではないので念のため。五逆罪に関しては「そういうもの、そう言う時代だ」と思っていただくよりございませんが、 posted at 02:39:58 @capita_f (続き)禁欲的なアプローチではなくて教えに従う事で、信ずる者の態度が良心的であろうという方向に向き、結果的に煩悩に悩まされる事から少し離れた楽な生活が出来る、と そう言うことでしょうかな、と個人的にはそう味わうことです posted at 01:34:03 @capita_f 先ほど挙げた「現生には~」のくだりこそが、真宗的な信の持ち方でしょうねえ。まず最初に仏恩への感謝があり、御恩報謝の生活を送る、と。執着してしまう凡夫なんだってことを自覚して、 posted at 01:33:26 @capita_f 誤解の無いように申し上げておきますが「死して救われたいと思ったこともない」とありますが、浄土教は死ぬことを賛美してはおりません。往生する=死ぬという意味に一般的に誤用されてますがそれも間違い。軽い理解で「自分の生をより良いものにする」位に捉えて良いと思います posted at 01:25:14 @capita_f そういう経緯と、真宗僧という立場があってお他力の教えを奨めているという事であって、他のやり方がダメ、ってことじゃありません。但し、例外はありますが。第十八願にも「唯除五逆誹謗正法」(五逆罪を犯すものは救いから除く)とかいてございます。 posted at 01:18:12 @capita_f 自分は煩悩てんこ盛りの凡夫である、と自覚されて絶望して、苦悩と試行錯誤の末に 聖徳太子の夢告を得て、法然聖人に出会い、浄土教の教えに帰依されたのであります。 posted at 01:06:05 @capita_f ほかならぬ親鸞聖人が堂僧として二十年間ちかく比叡山にいらっしゃいまして、自力の行を積む毎日を経験なされました。しかしどうやっても、自分の中の煩悩というものを取り払うことが出来なかった。 posted at 01:05:22 @capita_f 自力修行が出来る人はしたらいいんです。でも、普通の人はいわゆる凡夫(ぼんぶ)です。煩悩てんこ盛り。あれこれと誘惑に負けてしまったり、自分のコントロールなどそうそう出来ない。だから自力行などおいそれと出来ない。 posted at 01:00:29 @capita_f 色々詮索しても私からはこの結論以外出てこないよ。念仏を信じようと捨てようと各人の自由にするがいい」 したがってこの仰せから導き出されることは「他宗(自力)=ダメ」ということではないですね。 posted at 00:55:27 @capita_f (続き)その状態で例え地獄に堕ちたとしても悔いはない。阿弥陀様の御本願が真実ならば、釈尊の教えに間違いはない。ならば、善導大師の御注釈に間違いはない。ならば、法然聖人の教えも間違いはない。 posted at 00:54:00 @capita_f 「もしそんな方法が知りたいのであれば、比叡山や高野山あたりにいけば偉い学僧さんが多数いらっしゃるんだから、その方々にそういうことは聞いたらいい。私は法然聖人(親鸞様のお師匠様、浄土宗の開祖)の教えをそのまま信じているだけだ。例え騙されていたとしても悔いはない。 posted at 00:44:27 @capita_f ここで親鸞聖人がどういっているかというと。(信者さんがたにむかって)「あなた方は大変な苦労をなさってまでここまで来て、極楽往生の方法を尋ねに来なさった。(親鸞なら)念仏以外の往生の方法も知っているだろうなどと期待していた様だが、私はそのような事は知らない。」 posted at 00:41:45 @capita_f えーと、まずこれをご覧頂きたいのですが 歎異抄2節「おのおの十余箇国のさかひをこえて・・・」http://www.venus.dti.ne.jp/~bouzu893/seiten/tan_ni/tan_ni_0... posted at 00:24:22 @capita_f 「現生には仏祖の厚恩を仰いで報謝の大道を歩み 到来には往生の素懐を遂げて涅槃の妙果を証せん」(阿弥陀経・表白)-(私解釈)生きている内は御教えと阿弥陀様の御本願に感謝して生きましょう、もしこの世の御縁がつきたら必ずや極楽に参って自ら御教えの喜びを味わいましょう posted at 00:09:11
@capita_f 「他力本願」という言葉は世間では誤用されています。「努力せずに他人ばかり当てにすること」ととられがちですが 「他力」の本来の意味は「念仏した者を必ず救済するという阿弥陀如来様の願いの力」 「他力本願」とは、その如来様の力を信じること です。 posted at 23:59:29 @capita_f いや、お気持ちとして「頼りたい」というのがあったら頼っていただいて構いませんよ わたしゃ「ググレカス」などと言い放つほど酷薄ではありませんし。 posted at 23:45:57 何宗のお寺のお生まれかは存じませんが、そのお言葉にプラスして真宗的価値観に触れて下さればもっと良いと思います 個人的に本願寺出版の「浄土真宗必携」という本をお薦めします QT @capita_f @kousakayuki 「自灯明法灯明」いい言葉ですね posted at 23:13:38 @capita_f せっかくご両親ともに寺院であるお家のご出身なのですから、まだ得度を受けてなければ得度なされてはいかがですか。その御縁、放っておくのは甚だ勿体ないと存じますが。現場に立ってこそ、自分が不満に思っている事も解消に向けて努力できようというものです posted at 22:19:38 @capita_f 『自らを灯火とし、自らを依りどころとし、他を依りどころとしてはならない。法を灯火とし、法を依りどころとし、他を依りどころとしてはならない』。 「自らが御法に導かれて信を自覚し救われる」という事が帰結ですので、寺院の事情がどうあろうと法灯を絶やしてはならんのです posted at 22:16:35 @capita_f 現在の寺院の姿がどうあったとしても、葬式仏教と揶揄されたとしても、御教えというものはかわらずそこに存在しています。お釈迦様自身が涅槃に入られる直前に、弟子の阿南(あなん)に対して「自灯明法灯明」と説いています。 posted at 22:10:27 @capita_f 金ぴかの仏像による偶像崇拝、というのは 確かに度々批判されがちではありますが、それは仏像拝んだ事が無い者の批判かと。本堂のご本尊の周辺(内陣)や、御仏壇の内装は極楽浄土を現していると言われます。 薄暗いなかでそのお姿を見つめながら読経すると何とも言えないですよ posted at 22:05:47 @capita_f 便利、というのではなく「迷ったときに還る場所」として「無くてはならない」ものだから存在している、と言ったほうが良かったかなあ。そういって差し支えないと思います。セーフティネットなんですよ、いわば posted at 22:04:10 @capita_f 私もその葬式仏教というのが嫌でずっとお寺から離れていたのですが、社会に出て辛酸をなめたのち、縁あってまた御教えに触れて 自分の中で仏教に対する再評価が起こって、結果僧籍を頂くことになりました。 posted at 22:00:57 @capita_f 日本における檀家制度、という物は 元は徳川幕府が作った「強制信教割り当て制度」なのです。良い面も悪い面もあるのですが、それによってある種の経済的安定を寺院が得た結果、堕落してしまった面があり近年ではずっと「葬式仏教」と揶揄されてきました posted at 21:59:19 @capita_f 仏教の世界観から言えば今は末法(まっぽう)の時代にあたります。概念の委細はコレhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95を読んで貰うとして。 posted at 21:57:26 @capita_f 世の中には教えたがりというのがいます、私もその一人です。今ワクワクしながらこれを書いています。自分の思いつかなかった疑問に触れたとき自分の中から湧き上がってくる答え、そしてそれに対するレスが、なにより自分にとっても勉強になるからです posted at 21:54:13 ですからお寺というのは「あったほうがより良い」ものとして、また ご本尊等が無い方、よりどころとする教えが無い迷いの中にいる方が、いつでも御教えに出会える、という道場、として存在すべきであるから、存在し続けているのではないかなあと 私は思います。長くてすいません @capita_f posted at 21:33:06 真宗的には仏像等がなくても、「南無阿弥陀仏」の掛け軸をかざればそれがご本尊がわりになります。しかし、お寺という集まる場があって、ご本尊があって、御教えのお味わいを語り合う仲間がいれば、より具体的にお救いのイメージに近づけることは間違いないでしょう@capita_f posted at 21:31:21
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last update 06/03 13:16
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