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山谷真

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Twilog ホーム » @makotoyamaya » 2009年12月11日

2009年12月11日(金) 34 tweets

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日本議員による訪中twitter中継という、卑弥呼以来の日中政治史における「最初」の試みが、こうして終わるか。RT @takayamasatoshi: なんか、ありがちなコメントやRTが多くなって来たんで、つまんないから実況やーめた。

posted at 08:07:58

「神の約束は、われわれに対して、イエスキリストにおいてすでに与えられており、この世に対して実際に告げられている」カール・バルト

posted at 10:03:30

「イエスキリストは、神の約束そのものであり給う。すなわち、その約束の効力を持った宣言であり、信頼すべき宣言であり給う。彼においては、彼が語り給うことがすでに起こっており、すでに現在である」カール・バルト

posted at 10:05:27

「この世は、自分自身について何の幻影も作り上げる必要がなく、もはや望み無き世であることは出来ず、この世が神の判決と訓令のもとに立つのと同様に、キリストという約束のもとに立ち、この神と共なる将来の光の中に置かれた世であることが許されるのである」カール・バルト

posted at 10:07:14

「この世は、イエスキリストにおいて、神との和解を与えられた。神がイエスキリストにおいてこの世に現臨し給うたゆえに、この世は、その将来の存在についての神の約束を所有し、自らそのことを知っているか否かはともかく、この世は望みなき世ではない」カール・バルト

posted at 10:09:21

これから葬儀に行って来ます。

posted at 10:12:22

プレステスパコン、本当だったんだ!RT @mikeexpo: 「 今週のEconomist誌は、米空軍のスパコンにソニーのPS3のCPU「セル」が2200台使われることを報じている。」ゲーム機がスパコンになるとき - 池田信夫 blog: http://bit.ly/8r9pby

posted at 12:42:53

うーむ。Harold Campingは異端だがPaul J. ChongのThe New Life Missionも問題でしょう。このグループは、ひとはイエスの血を信じ告白しただけでは救われず、ヨルダン川でのイエスの水の洗礼をも信じ告白しないと「救われない」という主張ですよ。

posted at 15:42:57

過去二千年のキリスト者の信仰告白には「われ、イエスがヨルダン川にて洗礼を受けたもうことを、信ず」という一文は無いですよ。だから、Chongの教説とおりなら、従来の全キリスト者は、イエスの御宝血に完全にたよったにもかかわらず、全員滅びてしまったことになる。

posted at 15:49:01

滅びちゃったんですかね?

posted at 15:50:10

「神の訓令に人間が服従することを、人間の義認と区別して、また、義認の必然的な帰結として、人間の聖化と名付けるのを常とする。聖化とは、神の意志が能動的に成就されるために、人間の生活・存在・行為が、神の意志によって徴発されることである」カール・バルト

posted at 15:59:59

甲の陣営において、全教会が廃絶されんとしている。対する乙の陣営において、聖化論が廃絶されんとしている。甲乙いずれも台頭して、その結果はキリスト教の絶滅である。おお、神よ、われらを救いたまえ!

posted at 16:03:14

聖化論の淵源は、新約にあります。「聖なる者になりなさい」との「聖徒への召命」が「人類を聖別するためにご自身を聖別したもうイエスの御業」によって可能とせられている、というものです。聖化は、聖徒の霊・心・体をイエスの再臨に際して責められるところの無いものにする、神の御業です。

posted at 16:59:59

聖帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認し、やがて国教化されると、母なる教会に、回心せざる帝国臣民が形式的信仰告白を経て大量に入って来ました。この人々には教育的司牧が施され、一方、まことの回心を経験し聖化の道を進む聖徒は、荒野に小共同体を結んで、祈りの生活に打ち込みました。

posted at 17:08:33

聖化の追及は、世俗から分離した修道士によって行われ、神との神秘的合一に達した師父は、在俗の聖徒から大きな尊敬を受けました。一方、地上での聖化が不十分だった聖徒は、死後に煉獄で浄化されなければ天国には入れない、との教説が現れて来ました。

posted at 17:14:29

まことの回心を経験していないのに修道院に入って聖化を追い求めるという修道士が現れて来ると、その葛藤たるや、筆舌に尽くせない苦しみでした。その一人ルターは、長い葛藤の末、信仰によって義とされるという福音的回心を経験しました。

posted at 17:20:54

まことの回心を経験した聖徒は、生涯にわたる悔い改めを通して漸進的に聖化され、死に際して聖化が完成される、とルターは確信して、修道院と煉獄を廃止しました。

posted at 17:24:04

同様に、まことの回心を経験した聖徒は、生涯にわたる教会の訓練を通して漸進的に聖化され、死に際して聖化が完成される、とカルヴァンは確信して、やはり修道院と煉獄を廃止しました。

posted at 17:27:17

全ての聖徒が世俗内生活において聖化を追及すべきだ、とのプロテスタントの高邁な理想が挫折すると、まことの回心を経験した聖徒は「回心した者だけの共同体」として分離派教会を作りました。たくさんの修道院を廃止した結果は、たくさんの教団教派の誕生だったのです。

posted at 17:37:43

厳格な教会的訓練による聖化を追及したウェスレーは、回心していなかったために、ひどい葛藤と挫折を経験しました。その末に、ルターのガラテヤ書注解序文が朗読されるのを聞いて、瞬間的に福音的回心を経験したのでした。それは、ただキリストにのみよりすがる信仰によって与えられる義でした。

posted at 17:43:43

ウェスレーは、全国を説教して回る中で、多くの聖徒の臨終を看取り、死の際に大いなる喜悦とまったき愛に満たされる姿を目撃しました。また、馬上の読書で東方の師父の神化の教説に親しみ、聖徒は死ぬ前でも、信仰によって、まったき愛に満たされることが可能なのではないかと考えるようになりました。

posted at 17:56:02

@Doctor_Luke Campingという人は1988年にオランダ系改革派教会から破門されているんですね。で、Campingは1988年から1994年の期間は諸教会においては誰一人救われるない、という教説を説いている。このあたりはトラウマ的なものがあるのじゃないか思います。

posted at 20:48:49

ある教会のクリスマスの音楽会に行って、帰って来たところです。

posted at 20:50:19

ウェスレーの続きです。祖師の全国説教で回心した人々は、世俗内生活において聖化を追求する小共同体(会と組)に入会しました。これは回心した人が諸教派に属したまま会と組のメンバーになるという広教主義の路線です。祖師の死後、会と組の全国連合会が教派化して、メソジスト教会となりました。

posted at 20:55:36

世俗内生活において聖化を追求する会と組がメソジスト教会になりますと、制度化して来ます。すると、まことに回心し真剣に聖化を追求する聖徒たちが、すぐに飽き足らなくなって、分離派教会を作る動きに出ます。こうして、メソジスト教会は19世紀前半に次々と分裂を繰り返して行くことになります。

posted at 20:58:15

以上からひとつのパターンが浮かび上がって来ます。教会が制度化すると、まことの回心と聖化を求める聖徒たちが飽き足らなくなり、小共同体を作る動きに出る。それは修道院か分離派教会か、どちらかである。しかしその小共同体もやがて制度化する。するとまた飽き足らない聖徒たちが出て来るわけです。

posted at 21:00:52

このようにして、まことの回心と聖化の追求→小共同体→制度化→飽き足らない聖徒の分離→小共同体→制度化→飽き足らない聖徒の分離→という分裂が繰り返されるわけです。カトリックの場合、この小共同体は「修道院」で、修道院の数が増えていく。プロテスタントの場合は、教派が増えて行くわけです。

posted at 21:04:44

さて、問題は、「主との合一」を慕い求める聖化が、なぜに諸聖徒の合一に至らないのか、ということです。ひとつの考え方は、キリストイエスはひとつであるゆえに、われらはキリストにおいてすでにして合一しており、ゆえに、制度上の外見的な合一は不要である、ということです。

posted at 21:08:48

つまり、ひとつのキリストにおいて「われ」は第二世紀のアレクサンドリアのクレメンスと合一し、第14世紀のグレゴリオ・パラマスと合一し、第20世紀のカール・バルトと合一し、第21世紀の匿名のキリスト者と合一している、ということです。思想神学信条に相違があっても、主はひとつだからです。

posted at 21:12:24

かような立場に立てば、小生の信仰告白は、こうなります。「過去・現在・未来の諸教会の失敗はすべて、わたしの個人的失敗である。過去・現在・未来の諸教会の成功はすべて、わたしの個人的成功である。なぜなら、われもかれも、キリストのからだにあって合一しているから」

posted at 21:14:33

あとは、この信仰告白にアーメンと叫んで、のち、諸聖徒が従来とおり、お互いに是々非々の議論をして行けば良いでしょう。われらは聖餐のテーブルを二つに、あるいは一万に切り分けることができても、ひとつのキリストイエスを切り分けることは出来ないのだ、ということを忘却しなければ、よいのです。

posted at 21:22:00

@Doctor_Luke 2011年10月21日に一体何が起きるのでしょう。2012年に世界が終わるマヤの暦と近いですが、もしかしてもしかしたら(笑)いつ主が再臨されても慌てることのないよう、信仰義認を非行の口実にせず、「ただ信仰のみ」による聖化の恩恵に与って行きたいものです。

posted at 21:29:58

おお神よ。5分後に主イエスが再臨なさろうとも微塵も慌てることのない、あの確信、すなわち「われもはや生くるにあらず、キリストわがうちにありて生くるなり」の恵みの確信を、絶えずわが胸中に授け給え。しかも、幻想ならぬ、生活の実に表現され得る確信を、「ただ信仰のみ」によりて得させたまえ!

posted at 21:33:31

しかしですね、このキリストにある合一の立場に、あの偽キリスト一味が全く含まれていないのは、当然のことです。彼らは「かしら」が異なるのですから!

posted at 21:41:54

last update 06/04 10:31

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