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» @makotoyamaya
» 2010年03月17日
アウグスブルク信条を告白する者と、スイス信条を告白する者と、ウェストミンスター信条を告白する者と、カンバーランド長老教会信条を告白する者と、非信条派の立場の者が、内的なキリストの経験において一であり得る。なぜならキリストは分けられず、分離せず、分解せず、永遠に一だからである。 posted at 23:53:09 キリストに結ばれて生きている、という内的意識は、真実な御霊の証しによるものであり、自分とキリストとの一の経験である。この経験は、多様な聖書翻訳、多様な聖書研究、多様な聖書解釈、多様な信仰告白、多様な信仰生活という、多様な表現形態を取りつつも、内的なキリストの経験において一である。 posted at 23:47:05 使徒行伝の文脈では、A共同体(ユダヤ人)は律法遵守と割礼を重視した。B共同体(異邦人)は律法も割礼も重視せず、キリストに結ばれてする聖なる生活を重視した。両共同体は、この大きな違いを尊重しつつ握手して、キリストにある一を認め合うことが出来た。これこそがまことの広教会主義である。 posted at 23:39:33 A共同体とB共同体が、お互いの強調点の違いを尊重しつつも、キリストにある一を認めて握手をし、宣教上の住み分けをして相互に干渉しないようにしつつも、互いの貧さについては募金でもって助け合う。これが使徒行伝第15章に見る教会の一である。理想の教会の姿である。 posted at 23:32:57 プロテスタントとは、教会が聖で公であることはキリストの一によるのであり、聖座に服することにおける一ではないとする、教会についての信念である。聖書翻訳と聖書研究は個人の自由に委ねられ、信仰告白と信仰生活は個人が自発的に形成する信仰共同体に委ねられる。A共同体はB共同体に干渉しない。 posted at 23:27:58 カトリックとは、教会が聖で公であることは一であることと切り離せない、とする教会についての信念である。一であることの象徴が聖座であり、聖座に服することだ。聖書翻訳、聖書研究、聖書解釈、信仰告白、信仰生活は、多様な部分があるとしても、最終的には聖座の権威に服さなければならない。 posted at 23:20:42 部分から出発して確率論でもって全体に到達することができる、というためには、宇宙は斉一でないといけない。どのぐらい斉一か。完全に斉一と考えるなら、それは決定論的世界観になる。しかしどうしたはずみか、斉一性の破れが生じることもある、と考えるなら、奇跡が起こり得る世界となる。 posted at 23:11:48 この日のついーと http://ff.im/-hDIF9 posted at 10:41:17 Amen! RT @MotherTeresabot: 自分の内にキリストを住まわせるということは、とても大切なことです。そうすれば、どこに行こうとも、あなたは現存されるキリストと共にいるのです。 posted at 08:17:01
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last update 06/04 10:31
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