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» @makotoyamaya
» 2010年04月
キリスト者つうものは、十字を切ったり十字架のペンダントをつけたりすることによって「わたしはキリストとともに死んだ者です」と表明してるわけなんだけども、実際にはなかなかそういうふうにはなってないようです。いっそね、白いTシャツに「あたしは死んだ!」と大書して着たらどうなの、と(笑) posted at 13:04:04 今日死んだらどうしよう、でなく、今日死んだとしても悔いなく生きよう、という決意。これが、魔術的信仰や偶像崇拝から遠ざかる生き方かもしれませんね。しかも、悲愴感で生き急ぐんではなくって、いつでも自分を客観視して笑うことができるという。イツモシズカニワラッテイルという、あれね。 posted at 12:54:11 ところが中世の教会になりますと、「殉教者の骨」を拝んだり触ったりすれば、病気が治り願いがかなうという、魔術的信仰に変質してしまいました。自分の死を受け入れる、という信仰のポイントが失われると、信仰が偶像崇拝に変質してしまう興味深い例だと思います。 posted at 12:40:18 ローマカトリック教会(西方教会の母に祝福がありますように!)では十字架や祭壇に「殉教者の骨」を収めるのですが、これは礼拝に集う者たちみんなに「あなたも自分の死を受け入れなさい」と教えるしるしであったわけですね。死ぬことなくして復活は無いわけです。 posted at 12:34:08 英雄的な殉教や、崇高な清貧の生活が、実はおのれの美学のためであって、神すらも演出に使う装置に過ぎない、というのが究極のハイレベルな偶像崇拝ですが、神様はまるっとお見通しなんですね。ですから「あっはっは。あたしってほんとバカ。神様ごめん!」という路線に進むしかないでありましょう。 posted at 08:36:51 「自分を笑う」ことに関しては遠藤周作は意識してやっていたんではないかと思います。彼の奇跡理解には聖書根本主義者の小生には肯ぜぬところがあるけれど、その「狐狸庵先生シリーズ」のユーモアは、殉教と転びの問題をえぐった「沈黙」の深刻さと対を成して、良いバランスを取っていると思います。 posted at 08:23:22 偶像崇拝から脱却するには、自分の死を受け入れることが必要になるわけですが、それが「おのれの腹に死ぬ美学」という倒錯に取って代わられないためには、「自分を笑う」というユーモアが大切だと思います。チェスタートンは「真の宗教の試金石は自分を笑うことができるかどうかだ」と言いました。 posted at 08:14:32 この日のついーと http://ff.im/-jydFb posted at 02:57:51 「道具としての神」の真逆を表明したのがマザーテレサで、「わたしは神様の手の中のえんぴつです」と彼女は言いました。「状況においてよく勘案した上で、より困難な選択をするのがキリスト者だ」と言い切った元外務官僚の佐藤優氏も「道具としての神」の真逆を生きる敬虔でありましょう。 posted at 00:14:48 現代キリスト教には「繁栄の福音」というのがあって、これは一部のメガチャーチで奉じられているんだけども、神を信じれば収入が増え健康になり地位が得られるという、成功哲学と積極思考と信仰と合体させたもの。これなど「道具としての神」の路線を行っちゃってるんではないか、と恐れます。 posted at 00:03:45
かくのごとき「たといそうでなくても神に従う」という態度を、解剖学者の養老先生は原理主義と呼んで ましたっけ。江戸幕府は、こういう原理主義を排除する装置として踏み絵を使用した、というのが養老先生のお考えです。理念を実利に先んじる考え方は、こうして本邦から除去せられたのでしょう。 posted at 23:57:12 おのれの願望実現の道具として神を使わない、という決断の中から、敬虔としての神への服従、という態度が醸成されて来ます。自分の思ったとおり願ったとおりにはならなかったけど、それでもわたしは神に従います・なぜなら・神は神だから、ということですね。 posted at 23:51:47 Season of Graceという年に数度の特別伝道週間のご聖日には、教会の婦人たちが先述のようなソウルフードを大テーブルにいっぱいにつくって、おふるまいをする、ということだそうです。神をよろこび楽しめ、聖徒たちよ!ということだと思います。 posted at 23:33:42 制服の内ポケットがまた鍵裂きになった。20年近く着ていることによる布の経年劣化とiPhoneの重みが原因であろう。 posted at 18:37:27 乙1号証から80号証まで参照しつつ陳述書の手直しをする。 posted at 18:34:04 ソウルフードを作った。 posted at 18:31:10 この日のついーと http://ff.im/-jxPTq posted at 15:46:11 かように司直というシステムは、メタあるいは普遍あるいは証明不能な世界観的了解事項の上に立脚しているのであって、そこでは、ナザレのイエスをメシアと告白する積極的信仰というのではないけれども、ある種の信仰、つまり、見えざる前提を受け入れるという消極的信仰が要請されている。 posted at 00:10:19 万人、すなわち年齢性別門地人種職業言語宗教文化身長体重血液型星座に一切関わりなく、万人が、善悪理非曲直を判断する「衡平の法感覚」を保有している、という世界観的前提は、われわれが慣習的にそうしており、経験則からもそうであろうと思っていることだが、科学的証明はされていない事柄である。 posted at 00:04:52
選挙人名簿から無作為に抽出された人が陪審員なり裁判員なり検察審査会委員なり大陪審なりとして「判断」を下せるし、下すし、下さなければならない、というシステムは、万人の胸中に善悪理非曲直を判断する「衡平の法感覚」が刻印されているとする極めて聖書的な世界観的前提に立脚している。 posted at 23:57:59 この宣教戦略上の住み分け、あるいは、ラーメンののれんわけ、が「使徒行伝15章」の使徒会議の結論の極意だったのではあるまいか? posted at 22:25:49 さらに重要なのは、リベラル派と根本主義派が相互のテイストの違いを認めつつも、本質(キリスト)における一致を確認することである。その上で、自分の路線を堅持すればよい。塩ラーメンが醤油ラーメンになる必要はない。醤油ラーメンが塩ラーメンになる必要はない。宣教戦略上の住み分けである。 posted at 22:25:00 重要なのは、どんぶりは、どんぶりであることを、わきまえることである(われは麺にあらず) スープは、スープであることを、わきまえることである(われもまた麺にあらず) posted at 22:20:45 リベラル派か根本主義派かという論争に疲弊して「キリストのみ!」という路線に走ることは、あり得ることである。だが、麺が本質とは言っても、どんぶり無し、スープ無しで、麺だけ食することはむづかしい。そうは言っても、どんぶりやスープが自分こそ本質であるがごとく威張ることも誤りである。 posted at 22:19:48 リベラル派か根本主義派か、というのは、塩味か醤油味か、ということである。制度的教会か自由教会か、というのは、陶器か磁器か、ということである。しかし本質的に重要なのは、麺、すなわち、キリストという命を食して、その滋養にわれらが与ることである。 posted at 22:16:37 リベラル派と根本主義派の二項対立図式を調停するのは、やはり主イエスキリストご自身であろうと思う。卑近な例え(主ヨ、オユルシクダサイ)をするなら、ラーメンの本質は麺(キリスト)であって、スープ(神学)も、どんぶり(教会組織)も、付加物である。 posted at 22:13:19 この日のついーと http://ff.im/-jtQEX posted at 02:56:03
検察審査会には、起訴相当を言うとともに不起訴相当をも言う権能を賦与して「大陪審」にしたらよいと思う。「時効撤廃」という新時代において、健全なバランスを取らせるためである。30年昔の事件の起訴については必ず大陪審の審査を経させるべきだと思う。 posted at 20:54:24
「クリスチャントゥデイvs山谷」裁判の第一回口頭弁論準備(東京地裁702号法廷、5月17日(月)午前11時30分から)に向けての弁護士との打ち合わせを終えたところです。http://bit.ly/bfV4Jm posted at 23:17:31 この日のついーと http://ff.im/-jmKtM posted at 02:55:35
ちなみに小生は幼稚園がスペイン系のベリスメルセス女子修道会が経営するところでしたので、幼時より「父と子と聖霊の御名によりてアーメン」と十字を切って給食をいただいていました。 posted at 17:48:49 なお、荒俣宏先生の『帝都物語』でドイツ人の救世軍の伝道医師が十字を切る場面が出てきますが、これはマチガイ。かの「歩く博物館」こと荒俣大先生でも思い違いはあるのですねー。 posted at 17:45:58 中世の神学者ロンバルドゥスは十字を切ることをサクラメントのうちに数えていたのですが、宗教改革者はこの慣習を廃止してしまいました。ただし、プロテスタントでも英国国教会の高教会派は十字を切ります。 posted at 17:42:58 アンドレイ・ルブリョフ(ロシア、15世紀)の三位一体のイコンについて解説した。 posted at 17:26:48 午前。日曜学校。問答担当。小隊候補生養成会。聖別会(礼拝)ペトロ後書3:1-2より説教拝聴。午後。愛餐会。学びのつどい「三位一体について」続いてお茶と質疑応答のとき。 posted at 17:24:56 この日のついーと http://ff.im/-jlKkW posted at 12:05:24
セレゾ・バレドのページ http://ff.im/-jiSyU posted at 05:54:25 この日のついーと http://ff.im/-jisC1 posted at 02:55:40 私は地に火をもたらすために来た http://wind.ap.teacup.com/prayer/287.html #SpiritualityBlog posted at 00:45:06
重要なのは、その選ぶことにおいてわれわれが、創造者の自由な主権を行使したもう神に、頌栄を歌う者であるべきだ、ということである。アロマノカリスよ、アンモンナイトよ、プロトケラトプスよ、クォークよ、クェーサーよ、造物主なる神を賛美せよ! posted at 18:13:51 われわれは、世界の斉一的な構造の線に沿って創造者の御業を探求し、ある世界像を描く。われわれは、奇跡の線に沿って創造者の御業を探求し、別の世界像を描く。われわれは自由意思を持つ人間として、目の前に描出され提案された世界像を選ぶ。その一切が、創造者の自由な主権の行使の結果である。 posted at 17:57:05 では「光あれ」の瞬間に、われわれが立ち会うことは可能か? 無からの創造という、世界の彼岸の一点における出来事に、世界内存在であるわれわれが参与することは不可能である。われわれが決定論的人間であれ、非決定論的人間であれ、われわれは観測者として、存在の始源の場所にいることができない。 posted at 17:42:16 この問いは、決定論か非決定論か、という二項対立図式である。答えは、神が「光あれ」と言われた瞬間に立ち会うことによってしか得ることができない。なぜなら、部分から始めて有限個のサンプル採集と確率論を用いて全体に到達するという科学の方法は、すでに決定論を前提としているからである。 posted at 17:33:13 創造者の自由な主権の行使の結果が三つある。第一。世界の斉一的な構造。第二。自由意思を持った人間。第三。奇跡である。さて、人間の人格を第一の線に沿って考えると、それは、決定論的人間観となる。人間の人格を第三の線に沿って考えると、それは、非決定論的人間観となる。 posted at 17:24:45 「父性の意味が兄弟愛において私たちに残りなく明らかにされるまでは、人間は父なる神の胸に安らいえない。神が私たちの父であるのは、兄弟の父でもありたもうからである。兄弟の父として神を仰ぎ、感じるのでなければ、私たちは神を自分自身のものとして知ることができない」ジョージ・マクドナルド posted at 16:31:28
だが、ただひとつ言えることは、改革派神学校は、信仰の府であって、学問の府ではない、ということである。 posted at 12:37:56 ウォルトキー博士と改革派神学校と、どちらがどちらに譲歩すべき理由も無い。おのおのが創造者なる神の自由な主権によって授けられた、その自由な意思を用いて、おのおのの信仰上の決定をするというだけであり、誰が罪を犯しているわけでも、誰が創造主の経綸を暗くしているわけでもない。 posted at 12:36:41 ウォルトキー博士は、聖書の逐語霊感説を保持しつつ有神的進化論を奉じることにおいて、創造者なる神の自由な主権に従属する主体である。改革派神学校は、聖書の逐語霊感説を保持しつつ七日間創造説を奉じることにおいて、創造者なる神の自由な主権に従属する主体である。 posted at 12:32:48 一方、七日間創造説を奉じる改革派神学校の信教の自由もまた、これをおびやかしてはならない。要点は、この改革派神学校が、学問の共同体か、信仰の共同体か、ということである。ウォルトキー博士に辞任を求めた、という事実は、この学校が信仰の共同体であって、学問の共同体ではないことを証しする。 posted at 12:28:56 ウォルトキー博士の生存の自由は、これをおびやかしてはならない。ウォルトキー博士の表現の自由、すなわち、旧約学の学徒として論じ講じ著す、学問の自由は、これをおびやかしてはならない。ウォルトキー博士の信教の自由、すなわち有神的進化論を奉じる自由は、これをおびやかしてはならない。 posted at 12:22:32 生存の自由の保障、表現の自由の保障、信教の自由の保障のために、神の自由な主権の選びのもと、歴史において立てられ、保障の奉仕を行うようにと任じられた奉仕者が、国家と社会と教会である。 posted at 09:51:34 科学(斉一性)という標識も神学(奇跡)という標識も外すことのできない一点とは「自由意思を持った人間」の人格の自由である。この自由が自由として保障されるために、生存の自由が保障され、表現の自由が保障され、信教の自由が保障されなければならない。 posted at 09:47:59 そのような標本の取捨選択によって描かれた全体像は、しかし、全体そのものとは異なる何かである。むしろ、全体を指し示そうとしている標識のようなものである。それらの標識が科学(斉一性)によって立てられたものであれ、神学(奇跡)によって立てられたものであれ、外すことのできない一点がある。 posted at 09:38:59 さて、有限個のサンプル採集の現場において、どの個物を標本として採用し、どの個物を標本として採用しないかは、自由意思を持った主体の自由な選択による。ある主体は「世界の斉一的な構造」という線に合うよう標本を選ぼうとする。ある主体は「奇跡」という線に合うよう標本を選ぼうとする。 posted at 09:29:38 神学は、創造者の自由な主権の行使の結果としての「奇跡」の線に沿って仕事をする。全体(神)が部分(ナザレのイエス)においてあるという奇跡(キリスト)を通して、部分(信者)が全体(神)に到達することを目指す。この仕事において人間は、創造者の主権に従属する主体である。 posted at 09:24:18 科学は、創造者である神の自由な主権の行使の結果としての「世界の斉一的な構造」という線に沿って仕事をする。部分から出発し、有限個のサンプル採集と確率論を用いて、全体に到達することを目指す。この仕事において人間は、創造者の主権に従属する主体である。 posted at 09:16:31 創造者の自由な主権の行使の結果が三つある。第一。世界の斉一的な構造。第二。自由意思を持った人間。第三。奇跡である。 posted at 09:11:47 最後の問いは「世界がそのような構造なのはなぜか」ということである。 神学は「創造者である神の自由な主権のゆえである」と答える。そうして、創造者である神の自由な主権を証言するのが、創世記の冒頭の記事である。 posted at 09:03:17 部分から出発し、有限個のサンプル採集と確率論を用いて、全体に到達し得る。この科学的方法が、われわれの住む世界において極めて有効である、ということを、われわれは経験則で知っている。なぜか。世界がそのような構造だからであろう、と言うほかない。 posted at 08:58:28 生命がいかに誕生し現在に至ったか? これは「全体」の像にかかわる問いである。われわれは部分に過ぎないので、この問いの出発点は、いつも、つねに、たえず、部分から始めるしかない。いかにせば、部分から全体に、われわれは到達し得るや? posted at 08:44:38 福音派の旧約学者ウォルトキー博士が、聖書の逐語霊感説を保持しつつも有神的進化論を容認したため、改革派神学校の教授辞任に追い込まれた件。 posted at 08:40:02 この日のついーと http://ff.im/-jemhn posted at 02:55:48
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last update 06/03 18:14
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