makotoyamaya

山谷真

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2010年03月20日(土) 1 tweets

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この日のついーと http://ff.im/-hNWvo

posted at 02:57:08

2010年03月19日(金) 7 tweets

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いえ。イギリスの宣教学者アンドリュー・ジョーンズが彼のブログで「今年はエフェソ書を暗唱しよう!きみもやらない?」という記事を正月に書いていたので、小生の今年の抱負として挑戦してみることにしたのです。RT @k_kawashima: 聖書暗唱は救世軍の伝統ですか?

posted at 22:58:23

ペトロ書は、人間が立てたすべての制度にキリストのために従いなさいと勧めていて、その制度に総督を含めており、そこには当然、総督揮下のローマ軍も入れて考えられるのではありませんか。RT @BarlKarth: ルター派の私としては「軍人も祝福されるか」には興味がありますね。

posted at 22:18:31

いつでもエフェソ1:1からはじめてずっと暗唱して行きます。ぶつぶつ何か言いながら歩いて電柱にぶつかりそうになったり、赤信号を渡りそうになっている眼鏡の男がいたら、それは小生であるかもしれません(笑)@k_kawashima

posted at 22:07:52

午前。Spiritual Dayの集会。2名の士官の証言。コリント後書3:1-6から「生きた手紙」と題して司令官から説教を拝聴。午後。候補生の任官前の誓約式。夕方。任官式に向けた合唱練習。夜。サムエル・ブレングル中将の生涯から聖潔を学ぶ「献身セミナー」に出席。

posted at 22:00:15

エフェソ書第5章まで暗誦した。いよいよ最終章へ。使用聖書:TEV(3rd ed) #ephesians2010

posted at 21:49:17

おはようございます。May God bless you as you go with God! RT @james82t1205: おはようございます。

posted at 07:44:41

この日のついーと http://ff.im/-hKw7E

posted at 04:47:11

2010年03月18日(木) 29 tweets

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わたしと他者とは相交われない壁があるのに、キリストがわたしのうちに、また他者のうちに内在し、通底してくださり、交わりを可能とさせてくださいます。このような交わりは、あらゆる地上的制約を超え、全民族、全時代、全地域、全共同体を包摂した「聖徒の交わり」です。

posted at 23:54:42

正教会では主教が奉神礼(聖餐式)でパンを聖別すると、そこに過去・現在・未来のあらゆる場所の聖徒を包含する教会が顕現する、と考えられているのだそうです。このパンを食べるということは、神の前の個人である「わたし」の行為でなく、神の民の一員として皆と共にする「わたしたち」の行為ですね。

posted at 23:46:34

東京朝日には載ってなかった。RT @kikko_no_blog: 中央のマスコミはいっさい報じませんが今朝の「沖縄タイムス」に国連差別委員会が日本政府に対して「沖縄における軍事基地の集中が住民の経済・社会・文化的権利の享受を妨げている」と勧告した、というニュースがあります。

posted at 23:31:29

そうして、新しい母、新しい使徒となったプロテスタントは、いまや年老いた母となって、あの聖霊派の子どもたちから「母よ、あなたはもうわたしたちの使徒ではありません」という別れの挨拶を聞かされているのだ。かつての大母がそうして悲しい思いを味わったのと同じように。

posted at 21:18:34

だが「わたしが救われたのは聖書を読み信じ祈りキリストにより聖霊により直接に救われた!」という霊的直交の新時代が到来すると、西方の民はだんだん母なるローマの聖座への恩義を身近に感じなくなり、ついには「母よ、あなたはもうわたしの使徒ではない」と言う者が現れた。

posted at 21:15:10

そうして「あなたこそ福音によってわたしを産んでくれた御方です」という恩義を西方の民の大多数が感じていた時代には、確かにローマの聖座が「ほかのどの聖座でもなく、わたしたちを産んでくれたただ一つの聖座」として優位していたのだ。これが首位権であって、実際に即したもたものであったのだ。

posted at 21:09:53

結論は、使徒はその人を使徒と認める人にとってのみ使徒の権威を行使し得るということかもしれない。「私はあなたを使徒と認めない」あるいは「わたしはあなたの囲いの中にいない」と言う人に対して、使徒は指導に服するよう強いることが出来ず、ただ祝福を願い助言し祈ることができるだけである。

posted at 21:03:23

このように見るならば、使徒の使徒たるゆえんは、文字に記した推薦状にも手を置くことにもなく、福音を宣教し、福音による霊的誕生の奉仕をし、新たに生まれた人々の御国への行進を嚮導するという「実存」が使徒であろう。それで御国(新エルサレム)の土台には多数の使徒の名が刻印されているのだ。

posted at 20:56:12

このような第13以降の使徒は、使徒の推薦状を持つ「使徒」に比べて批評されることが多く、使徒と認めてもらえないこともあるが(これがパウロの日常の経験であった)しかし「福音によってあなたがたをもうけたのは他の誰でもなくわたしである」との確信によって、彼・彼女は使徒として立った。

posted at 20:43:00

では、パウロの先例にならい、今日誰でも自己の確信にもとづいて勝手に使徒を名乗ることができるのか? これははなはだ疑問である。しかし、彼・彼女の「キリストの助産婦」としての働きで生み出された多くの子らは「生きた推薦状」となって彼・彼女が確かに使徒であることを証しするであろう。

posted at 20:35:07

では、パウロに按手したあのアンテオケ共同体の預言者たち教師たちは、使徒ペトロから按手され任職された人たちだったのか? パウロが「ひとの手によらず神により使徒となった」と主張しているところを見ると、間接的使徒的継承の可能性すらも低いようである。

posted at 20:29:22

多数の使徒座は聖数12に制限されない。使徒行伝第13章で使徒不在のアンテオケ共同体の預言者たち教師たちは、バルナバとパウロに按手して宣教に派遣している。この宣教の中でパウロは使徒を名乗るようになる。ガラテヤ書のパウロ自叙伝では使徒ペトロはパウロと握手はしているが按手はしていない。

posted at 20:25:26

聖座、つまり使徒座の一ということを考えるとき、小生は使徒職の多数性ということに目が行く。われらの主は12使徒を任命されたのであって、この12の座が使徒座の一のうちに解消されるものでないことは、新エルサレムに永久に12使徒の名が刻印されているのを見れば明らかである。

posted at 20:01:02

キリストにある一。この単純素朴な認識を根拠に兄弟姉妹が愛餐を共にするテーブルが、天来の新しいエルサレムには備えられていることを、小生は信じ、かつ、待ち望みます。その時には、あらゆる地上的障壁が取り払われることでしょう。その日の来たらんことを!

posted at 18:16:07

われらはキリストイエスを告白し御霊の注ぎを受けてあることにおいて一であり、われらの願望ではなく御父の聖旨のゆえに互いに兄弟姉妹とされていることを小生は信じます。RT @sacchan_satoru: おっしゃる通りです。ただ、兄弟姉妹であることは事実として認めて頂きたいものです。

posted at 18:11:46

西ローマ帝国滅亡後に西方世界が教化され得たのは、聖座の嚮導があったからです。西方の民は文字も農耕も醸造も信仰も建築も、すべて母なる教会から学びました。成人して、プロテスタントは母のもとから独り立ちしましたが、赤ん坊の時から育ててくれた母への恩義は忘れてはいないはずだと思います。

posted at 13:24:15

小生にとってローマカトリックは西方教会の母です。アウグスティヌスの堕落論、教会論、恩寵論、歴史論、国家論は、西方教会の子らに今も大きな影響を及ぼしています。東方教会のような「万物が栄光化された」という目で世界を眺め得ないのは、プロテスタントがローマの子だからだろうと思っています。

posted at 13:18:07

プロテスタントの中身は、キリストという一をほかにすれば、あまりに多様であるために、プロテスタントがカトリックをどう思っているかの統一見解は無いと思いますよ。RT @sacchan_satoru: 向こうさんがどう思っているかは知らないし、知る由もない。

posted at 13:11:43

Amen! RT @WordsofNouwen: 私たち自身は癒す者でも、和解をもたらす者でも、いのちを与える者でもありません。私たちは自分が世話をする人々と同じく、世話されることを必要とする罪深い、破綻した、傷つきやすい人間です。

posted at 13:07:06

4文字打つのに15秒待ち、変換するのに20秒待ち、ファイルを開くのに2分かかるパソコンって。16kHzで動いていたLC520だって、これほど遅くはなかったよ。人類の大いなる退歩と停滞。

posted at 11:37:56

市民が主体的にゾーニング・レーティングを実施し、その審査機関は統治権力から自立し自律しており、利権の対象にされないこと、かな。RT @lina_asaba: お互いに歩み寄れる地点はどこなのか、という話をして言ってもいいんじゃないか、と思っているんですが #hijitsuzai

posted at 09:49:17

同感です。RT @grayengineer: 奪ってないですね。私は40年以上普通に生活していて同人誌を目にする機会は一度もありませんでした。自分からコミケなどに行かない限り見ることはないでしょ @Wonderfulsocie 見なくていい権利を奪っている。#hijitsuzai

posted at 09:29:26

ヘンリー8世(彼の霊に平安があらんことを!)の御代に離婚問題のために国会の議決で分離した英国教会が、エリザベス2世の御代に同性結婚をゆるす国会の議決のためにローマカトリックに復帰するとしたら。歴史の皮肉だ。

posted at 09:19:11

議会が国教会に同性同士の結婚を司式するよう議決したため、国教会が分裂する可能性があります。そこへ、国教会の聖職・信徒・共同体が国教徒のままローマカトリックに復帰できる道を、教皇が用意している。その結果は。RT @yokosama1: 今度、ローマ教皇がイギリスを公式訪問しますね!

posted at 09:09:00

正確にいうと昨日ですね。3月17日。RT @o2hi: 山谷少佐、おはようございます。ああ、今日はセントパトリックデイなのですね。映画くらいでしかなじみが無い私ですが・・http://bit.ly/9baiXQ

posted at 08:42:28

「すべてのひとの心の中にいますキリスト。わたしに語りかける、すべてのひとの口の中にいますキリスト。わたしを見つめる、すべてのひとの目の中にいますキリスト。 わたしの声を聞く、すべてのひとの耳の中にいますキリスト」聖パトリック

posted at 08:35:13

セントパトリックデイ、おめでとうございます。聖パトリックの祈り。http://bit.ly/9baiXQ

posted at 08:30:21

プロテスタントは、イエスをキリストと告白する信仰の上に教会が立てられる、と信じております。RT @sacchan_satoru: 使徒ペトロに教会の権威を与えたのはキリスト本人です。その権能は現代にまで引き継がれている、というのがカトリックの解釈です。

posted at 07:44:30

この日のついーと http://ff.im/-hGi6X

posted at 02:56:58

2010年03月17日(水) 9 tweets

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アウグスブルク信条を告白する者と、スイス信条を告白する者と、ウェストミンスター信条を告白する者と、カンバーランド長老教会信条を告白する者と、非信条派の立場の者が、内的なキリストの経験において一であり得る。なぜならキリストは分けられず、分離せず、分解せず、永遠に一だからである。

posted at 23:53:09

キリストに結ばれて生きている、という内的意識は、真実な御霊の証しによるものであり、自分とキリストとの一の経験である。この経験は、多様な聖書翻訳、多様な聖書研究、多様な聖書解釈、多様な信仰告白、多様な信仰生活という、多様な表現形態を取りつつも、内的なキリストの経験において一である。

posted at 23:47:05

使徒行伝の文脈では、A共同体(ユダヤ人)は律法遵守と割礼を重視した。B共同体(異邦人)は律法も割礼も重視せず、キリストに結ばれてする聖なる生活を重視した。両共同体は、この大きな違いを尊重しつつ握手して、キリストにある一を認め合うことが出来た。これこそがまことの広教会主義である。

posted at 23:39:33

A共同体とB共同体が、お互いの強調点の違いを尊重しつつも、キリストにある一を認めて握手をし、宣教上の住み分けをして相互に干渉しないようにしつつも、互いの貧さについては募金でもって助け合う。これが使徒行伝第15章に見る教会の一である。理想の教会の姿である。

posted at 23:32:57

プロテスタントとは、教会が聖で公であることはキリストの一によるのであり、聖座に服することにおける一ではないとする、教会についての信念である。聖書翻訳と聖書研究は個人の自由に委ねられ、信仰告白と信仰生活は個人が自発的に形成する信仰共同体に委ねられる。A共同体はB共同体に干渉しない。

posted at 23:27:58

カトリックとは、教会が聖で公であることは一であることと切り離せない、とする教会についての信念である。一であることの象徴が聖座であり、聖座に服することだ。聖書翻訳、聖書研究、聖書解釈、信仰告白、信仰生活は、多様な部分があるとしても、最終的には聖座の権威に服さなければならない。

posted at 23:20:42

部分から出発して確率論でもって全体に到達することができる、というためには、宇宙は斉一でないといけない。どのぐらい斉一か。完全に斉一と考えるなら、それは決定論的世界観になる。しかしどうしたはずみか、斉一性の破れが生じることもある、と考えるなら、奇跡が起こり得る世界となる。

posted at 23:11:48

この日のついーと http://ff.im/-hDIF9

posted at 10:41:17

Amen! RT @MotherTeresabot: 自分の内にキリストを住まわせるということは、とても大切なことです。そうすれば、どこに行こうとも、あなたは現存されるキリストと共にいるのです。

posted at 08:17:01

2010年03月16日(火) 12 tweets

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合衆国憲法修正第1条「言論と出版の自由を制限する法律を制定してはならない」これに倣い日本国憲法第21条も「表現の自由を制約する法律を議会は制定してはならない」と修正する必要があるだろうか? ないのだ。憲法に反する法律は法理上無効であるから。だが無効が有効になるのが本邦である。

posted at 16:12:57

現状において日本国憲法第21条は空文であり、大日本帝国憲法第29条が廃止されずに、そのまま維持されていることになりかねない。表現行為の内容が法律によって規制され、しかもその法律は官僚の裁量範囲が大きいために、事実上官僚が国民の表現行為の様態を決定するという、旧世界より古い世界だ。

posted at 15:56:35

先の大戦で敗北した本邦は、表現行為の自由を法律で制限する旧世界型憲法を脱して、表現行為の自由を抑止する法律の制定を禁止する新世界型の憲法を移植されたわけである。憲法21条の「一切の表現の自由の保障。検閲の禁止。通信の秘密の不可侵」がそれである。

posted at 15:49:56

本邦は憲法モデルを、王室が国教と結びつく旧世界型から採用した。大日本国憲法29条は「臣民は法律の範囲内において言論、著作、印行、集会及び結社の自由を有する」として、表現行為を法律で制限する。新世界型である合衆国憲法修正第1条が表現行為を妨げる法律を作ることを禁止するのとは真逆だ。

posted at 15:36:49

非キリスト教的価値観の表現行為の自由が確立されて行く過程で、公共空間におけるキリスト教的な表現行為は漸次撤去されて行った。まず創造論が、次いで祈祷が、公立学校から撤去され、さらに、クリスマスツリーがホリデーツリーに、メリークリスマスがハッピーホリデーに改称された。

posted at 15:01:17

最初、宗教的な表現行為の自由であり、次に政治的な表現行為の自由となり、それが、文化的な表現行為の自由となったのは、1960年代に始まる対抗文化運動(カウンターカルチャー)における合衆国憲法の解釈をめぐる論争であった。こうして、非キリスト教的価値観の表現行為にも自由が保証された。

posted at 14:14:32

旧世界おいて表現行為を制限され、 新世界に表現行為の自由を求めて移民した少数派は、多様な少数派を「自由」の理念で統合する人工国家を樹立した。E pluribus unumがその標語である。こうして、宗教的な表現行為の自由は、政治的な表現行為の自由となって行った。

posted at 12:09:57

多数の翻訳、多数の解釈、多数の表現の結果、多数の信仰共同体が生まれた。多様な教団教派の到来である。それは次に、寛容の時代へ、つまり、自分と異なる表現行為をする者を自由刑や死刑の威嚇で脅かさない時代。他者の内心の自由のみならず、他者の表現の自由をも尊重する時代の到来である。

posted at 11:07:04

人々が聖書を翻訳し、独自の聖書の解釈を表現すると、当局は自由刑と死刑で罰した。ティンダルは聖書を英訳して火刑に処された。宗教改革者が「教皇は聖書の権威に劣る」と宣言した時、事態が転じた。多数の翻訳、多数の解釈、多数の表現の時代の到来である。西方世界はパンフレットの洪水となった。

posted at 10:26:26

「ナザレのイエスがキリストである!」と表現して自由刑や死刑を受けていた、かつての少数派が、時代が転じて多数派になると、今度は自分と異なる表現行為をする者に対して自由刑や死刑を課すようになった。カタリ派など「イエスは神の子かキリストの子か」という二択問題に間違えただけで罰せられた。

posted at 10:02:42

アタナシウスが「御子は神である」との表現行為を行った時、「御子は被造物である」とする当事の多数派(アリウス派)はこれを問題視して、アタナシウスは自由刑を課され、その後も亡命の生活を余儀なくされた。だが、アタナシウスの表現行為が正しいとされる時代が来た。

posted at 09:37:27

ペトロが「ナザレのイエスがキリストである!」と叫んだ時、当局はこの表現行為が秩序と安寧を乱すとしてペトロらを逮捕し、自由刑と身体刑を課した。このときペトロは、国法の禁止を受けても自分は表現行為を続行する覚悟である、と宣言した。かくして国法の規制と表現の自由という問題が始まった。

posted at 09:21:39

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