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佐藤正美@satou_masami

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2017年10月12日(木)7 tweetssource

10月12日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

30年・40年を徹して熟練した人こそ、信用できる人だと私は思っています。たとえ、その人が黙っていても存在感がでるのではないでしょうか。そして、そういう状態にある人は、醜悪な(あるいは、俗な)物を拒絶するでしょう。なぜなら、エロスは「うつくしい」物を産むことと同値だから。

posted at 14:07:56

10月12日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「魅力(艶、色気)」というのは、たぶん、咀嚼された教養が滲みでた生々しい状態なのではないかしら。そして、死んだ「概念」のみなら辞書類のなかに たんと収められているでしょう。

posted at 14:04:56

10月12日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

ふつうの言いかたなら、学習すればするほど「つまらない」人物になって「魅力がない(あるいは、艶がない、色気がない)」と云うこと。ところが、その状態を「客観的である」と糊塗(こと)するに至れば始末が悪い。

posted at 14:02:24

10月12日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

専門家として、なにがしかの物を作る仕事では、「作る」という意味において――あるいは、「産む」という意味において――、なんらかのエロス [ プラトン的エロス ] が、必ず、そのひとの雰囲気のなかに燻(くゆ)り立つはずですが、それを感じられない状態が「乾涸びた状態」でしょうね。

posted at 13:59:59

10月12日

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佐藤正美@satou_masami

「一概念のために人間性を捨てて乾涸びる」という現象は、一つの主義を盲信しているひとが陥る罠ですが、ほかにも、専門家と称されるひとが往々にして陥りやすい状態でしょう。

posted at 13:55:44

10月12日

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佐藤正美@satou_masami

「この男の頑固な良心的一概念、なるほど、この男のように必死に守れば概念も悲劇性を帯びるであろうが、概念はあくまで概念だ。この一概念のために人間性を捨てて乾涸(ひから)びるとは悲しい事だ」(小林秀雄、「物質への情熱」)。

posted at 13:53:58

2017年10月09日(月)6 tweetssource

10月9日

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佐藤正美@satou_masami

「ささやかな美に溺れても、溺れ切った人は、傍人のうかがい知れぬ現実の形を握るであろう。一見感傷的な歌も、達人の歌は底知れぬ苦さを蔵する所以である。名人は危きに遊ぶという、真実とは常に危いものであるらしい」(小林秀雄、「物質への情熱」)。

posted at 08:46:44

10月9日

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佐藤正美@satou_masami

愛があるところには、かならず、対象に関しての「発見」があるはずです。ただ、「情熱」は、対象の美しさだけを発見するのではないのであって、美しさと同時に醜さを発見するかもしれない、、、。他人(ひと)には見えない物が見えすぎるというのは不幸なことなのかもしれない。

posted at 08:43:02

10月9日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「詩人は美しいものを歌う気楽な人種ではない。在るものは、ただ現実だけで、現実に肉薄するために美しさを頼りとしなければならないのが詩人である。女に肉薄するのに惚れるという事を頼りにするのが絶対に必要なようなものである」(小林秀雄、「物質への情熱」)。

posted at 08:40:32

10月9日

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佐藤正美@satou_masami

「情熱」の伝わってこない文は、たとえロジックが完璧であっても、なにかしら、行間には「こんなの ちょろいもんさ」という小悧巧さを感じることが多い。

posted at 08:36:26

10月9日

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佐藤正美@satou_masami

徳のあるひとに較べて悪人のほうが断然に魅力がある。悪事のほうが魅力的(浪漫的)です。そのために、二流(あるいは贋物)は「偽悪者」を装う。そんな見せ掛けの疵を多数持っていても、毛頭、勲章にならないでしょうね。一流(あるいは本物)は、かならず、「堂々と堕ちている」。

posted at 08:33:58

10月9日

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佐藤正美@satou_masami

巧妙な誘惑とは、罪を知りながら自分を責めつつ、自分を責めることを免罪符にして誘惑する。その意識は、いっそう悪事の興奮をそそる。その臭いを嗅ぎつけたとたんに、私は悪口が反吐のように込み上げてきます――「欺瞞を欺瞞するような手口を使うんじゃない、堂々と堕ちなさい」と。

posted at 08:29:49

2017年10月01日(日)8 tweetssource

10月1日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「実生活」から観れば「象徴の現実」(芸術)は滑稽にしか思えないし、「象徴の現実」(芸術)から観れば「実生活」は滑稽にしか感じられないでしょう――とうとう、ふたつの世界(「実生活」と「象徴の現実」)は、どこまで延長しても、平行線のままでしょうね。

posted at 19:26:50

10月1日

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佐藤正美@satou_masami

芸術的生活なんて戯言だって? 強烈な恋愛をしてみればいい――そのときには、だれもが実生活のことなど忘れて愛しあっているでしょう、ただし、世間の眼には、逆上(のぼ)せた痴情に見えるでしょうね。世間の眼で観れば、「芸術」の性質も それと同じでしょう。

posted at 19:24:04

10月1日

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佐藤正美@satou_masami

私は文学愛好家として芸術を観ていても「芸術と実生活は、『住む世界がちがう』という感を抱いています。そして、「芸術が何か実生活を超えた神聖物とみなす」ような態度に対して――あるいは、芸術鑑賞を「教養」だとみなす態度に対して――私は嫌悪感を覚えます。

posted at 19:20:59

10月1日

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佐藤正美@satou_masami

「二十年間も小説家でゐながら、自分の書いたものが死や破壊はおろか、読者に風邪一つ引かせることができなかつたといふことに、気づかない人間がゐるとしたら、まづ正真正銘の馬鹿者である」(三島由紀夫)。

posted at 19:16:24

10月1日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「実生活に追われて人々は芸術をかえりみないのではないのだ。生活の辛酸にねれた心が芸術という青春に飽きるのでもないのだ。彼らは最初から、異なったこの世の了解方法を生きて来たのだ。異なる機構をもつ国を信じて来たのだ。生活と芸術とは放電する二つの異質である」(小林秀雄)。

posted at 19:13:50

10月1日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「それより人々は実生活から学ぶ方がよっぽど確かだ。事実人々はそうしている。実生活で鍛え上げた心が、どうして芸術なんかを心底から味わう。鼻であしらうのは彼ら当然の権利である」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

posted at 19:10:47

10月1日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「『芸術を通じて人生を了解する事は出来るが、人生を通じて芸術を決して了解する事は出来ない』と。これは誰の言葉だか忘れたが或る並々ならぬ作家が言ったことだ。一見大変いい気に聞えるが危ない真実を貫いた言葉と私には思われる」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

posted at 19:08:19

10月1日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「実生活にとって芸術とは(私は人々の享楽あるいは休息あるいは政策を目的とした作物を芸術とは心得ない)屁のようなものだ。この屁のようなものとみなす観点に立つ時、芸術というものを一番はっきりと広く浅く見渡す事が出来るともに、一番朦朧と深く狭く覗く事ができる」(小林秀雄)

posted at 19:04:49

2017年09月25日(月)6 tweetssource

9月25日

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佐藤正美@satou_masami

じぶんの辿った精神の旅を歌う情熱をもちつづけて、それを歌う技術は「至難の業」です。私には、情熱はあったが、技術がなかった、、、。そして、もし技術があったとしても、二番煎じは作家ではない。

posted at 11:32:04

9月25日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

小林秀雄氏の言いかたを芥川龍之介氏ふうに言えば、次の言いかたになるでしょう――「最も善い小説家は『世故に長じた詩人』である」(「侏儒の言葉」)。ただ、芥川龍之介氏の言いかたは理知的で、小林秀雄氏の云う「情熱をおさえる事は至難の業だ」が伝わってこないですね。

posted at 11:30:19

9月25日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「心境小説というものがある。娑婆(しゃば)臭い心根を語って歌とする事は至難の業が。本格小説というものがある。苦しんで辿った自分の心を歌いたいという情熱をおさえる事は至難の業だ。このどっちかの至難を痛感しない人は作家でもなんでもない」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

posted at 11:26:48

9月25日

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佐藤正美@satou_masami

そして、一見「客観的な尺度」と錯覚されるような・その実が安物の定規(公式)などは作家の思いの熱さで延びて目盛りが狂ってしまうでしょう、きっと。感動しながら思索した・耐熱性のある頑丈なロジック、それが批評ということでしょうね。

posted at 11:23:08

9月25日

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佐藤正美@satou_masami

作家の「心」に即して感動しながら思案するというのが「客観」ということでしょうね。感動したという事態(作用・反作用の運動)は「事実」です、そして その「事実(感動という運動)」を見据えるのが「客観」ということです。

posted at 11:19:45

9月25日

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佐藤正美@satou_masami

作家が作品のなかに込めた(あるいは、作品として構成した)「心」を批評家は掴んで味わい評しなければならない――「手で重さを積って」「眼の前の煙草の箱を見るように」(小林秀雄)。それ(作家の「心」)を測る定規(公式、一般手続き、論理法則)など存在しない。

posted at 11:17:24

2017年09月23日(土)6 tweetssource

9月23日

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佐藤正美@satou_masami

「和やか」な眼において、逆説的になるかもしれないけれど、「宗教を信じた」亀井勝一郎氏は「人間臭い」感――なにがしかの心理的な揺れ [ 浪漫的な感興 ]――があると思います。そして、その点こそ、私が亀井勝一郎氏を愛している理由なのです。

posted at 19:32:42

9月23日

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佐藤正美@satou_masami

勿論、批評家である亀井勝一郎氏の眼は事態・事物を見透かす眼であったけれど、見えすぎたために異能を脱落(とつらく)した(あるいは、作為 [ 装う ] を嫌った)眼であるという印象を私は持っています。

posted at 19:29:24

9月23日

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佐藤正美@satou_masami

「和やかな眼」は、対象を一つの「総体」として普(あまね)く照らして観る。その眼は、けっして、一つの烈しい視点(向きをもった光束)ではない――そして、視点を幾つか束ねた「複眼」でもない。すなわち、事態を如是として「あるがままに凝視する」。それが亀井勝一郎氏の眼だったと思います。

posted at 19:26:11

9月23日

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佐藤正美@satou_masami

「転向」を体験した亀井勝一郎氏は、みずからの精神を再生するために信仰に入りました。「大和古寺風物詩」を執筆したあとの彼の眼は「和やか」になった。そして、彼は、その眼で「聖徳太子」「愛の無常について」「親鸞」「日本人の精神史」などや、恋愛論・夫婦論・人生論を執筆しました。

posted at 19:22:56

9月23日

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佐藤正美@satou_masami

「和やかな眼」を持った批評家として亀井勝一郎氏を私は思い起こします。亀井勝一郎氏の青春時代は、文学を志したひとの多くがそうであるように「激しい戦い」の様を呈して、まさに「探る」眼を持った状態だったと思います。かれの著作「人間教育」を読めば、その状態がわかる。

posted at 19:19:10

9月23日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「探るような眼はちっとも恐(こわ)かない、私が探り当ててしまった残骸をあさるだけだ。和(なご)やかな眼は恐ろしい、何を見られるかわからぬからだ」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

posted at 19:15:51

2017年09月18日(月)6 tweetssource

9月18日

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佐藤正美@satou_masami

作家と批評家は、もとより べつべつの人物です。したがって、作家の頭脳・精神のなかで起こった現象を批評家が忠実に辿れる訳じゃない――他人はそれ(精神作用)を 判断すべき尺度を絶対に持っていないでしょう。作家の思考・精神を搦め手にして論(あげつら)う、そこには批評家の臭いがでる。

posted at 15:43:52

9月18日

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佐藤正美@satou_masami

批評家は、作家が感じた精神状態を同じように感じるほかない。批評家は、みずからの意見を排して、先ず「作品」を忠実になぞって作家の「主調低音」を聴くほかない。批評家は、「作品」の埒外に立って「作品」を ながめている訳じゃない。

posted at 15:40:27

9月18日

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佐藤正美@satou_masami

批評家は、「作品」を いったん叩き壊して――「解析」を窮(きわ)めて――、「作品」の生まれた始原的状態に立ち戻って、改めて「作品」を作家がやったのと同じように再構成しなければならない。

posted at 15:36:43

9月18日

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佐藤正美@satou_masami

作家の「作品」を批評するためには、作家が観た視点(生活理論)で、作家が使った文体(制作理論)を追体験するしかないでしょうね。

posted at 15:33:50

9月18日

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佐藤正美@satou_masami

小林秀雄氏の評論文を一読したあとに感じる印象は、強烈な「文体(個性)」です。そして、この「文体(個性)」が、かれの評論を「印象批評」のように感じさせるようです。しかし、「個性的」であることが「独断的」であるということにはならないはずです。

posted at 15:31:39

9月18日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「独断家だ、と言われる。(略)私はただただ独断から逃れようと身を削って来た。その苛立たしさが独断の臭いをさせているのだろう。だが私には辿れない。他人にどうして辿れよう。きたならしい臭いである」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

posted at 15:26:02

2017年09月16日(土)9 tweetssource

9月16日

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佐藤正美@satou_masami

文芸のシロートである私であっても、もし、或る作品に関して批評文を綴るように依頼されたら、「さて、では、賛成の立場で綴ればいいですか、反対の立場で綴ればいいですか」と確認することくらい たやすいことです。だから、批評家失格。

posted at 16:24:04

9月16日

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佐藤正美@satou_masami

遺憾なことには、文学のなかに理論を探っている批評家という専門家が作家の個性的な「生活理論・制作理論」を軽視してしまって、「科学的な」接近法をとって、寧ろ、一般読者のほうが作品を「(ひとつの物語に対する)感動」として実感しているでしょう。「感動しながら思案するは難い」。

posted at 16:22:02

9月16日

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佐藤正美@satou_masami

批評という行為は、「特殊風景に対しる誠実主義」に立っておこなうしかないはずです。そして、そうであれば、批評家は、作家の個性的な「生活理論・制作理論」と対峙するしかない。

posted at 16:17:48

9月16日

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佐藤正美@satou_masami

作家は、或る事態に対して或る見かたをして、無限とも言える表現法のなかから、みずからの「文体」(生活理論、制作理論)で ひとつの記述を選んで、作品を刻んだのであって、批評家の眼前にあるのは、その ひとつの「作品」です。

posted at 16:16:02

9月16日

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佐藤正美@satou_masami

思考力が或る程度あれば、賛否両論を作ることなど たやすいことです――なぜなら、或る言説 A に対して、補集合 ¬A を考えて、「反例(¬A)」を使って「反証」を構成すればいいだけだから。

posted at 16:13:21

9月16日

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佐藤正美@satou_masami

いわゆる「古典的な(すなわち、規範的な)」と云われている作品は、かならず、「繊細な感受性」と「確固たるロジック」を兼掌していることを感じます。「ただカンの鈍さが理屈を言わしている」ような一流作品などないでしょう。

posted at 16:09:22

9月16日

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佐藤正美@satou_masami

現実的事態を或る視点において鷲掴みにしたとき、その状態は「直観(あるいは、着想)」にすぎないのであって、「直観(あるいは、着想)」に対して「構成」を与えるのが文であるかぎりにおいて、作家は、「構成」のロジックを免れる訳じゃないでしょう。

posted at 16:06:42

9月16日

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佐藤正美@satou_masami

「芸術において『ロジック』など不要だ、私は私の観たままを記述する」というふうに うそぶいて天才肌を気取っている。そして、「ロジック」を知らないのが天才の特権であるとさえ思い違いしているのではないか。ただ、そういうふうに考えている作家など「二流」にすぎないでしょうね。

posted at 16:04:21

9月16日

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佐藤正美@satou_masami

「数学者に、頭のいい悪いはあろう、だが仕事の上で嘘をつく数学者なんてものは一人もいないはずである。ところが文化科学になると、いや芸術学というものは、頭がよくないという事は、嘘をつくと同じ意味を持つ」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

posted at 16:00:05

2017年09月12日(火)5 tweetssource

9月12日

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佐藤正美@satou_masami

たいがい、批評を聴いている人たちは、批評を言っている人の辛さを気づきはしない。そして、批評に対して、「人々は知らず知らずに白眼をつかう。喧嘩腰で読む格だ。自分の事を言われて自分の事しか考えない人は、馬鹿でなければ傑物だ」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

posted at 19:06:22

9月12日

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佐藤正美@satou_masami

批評というのは、批評する概念が広ければ――そして、術語を使えば、なおさら――たいがい だれでも思いあたるふしがあるので、かならず、批評したほうにも反照する性質を帯びる。そして、それを掘り下げて「眉間を割る」ことを言えば、批評しているほうも辛いにきまっている。

posted at 19:02:54

9月12日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「しかし、自分を棚に上げなければ批評文は出来上がらない。自分を棚に上げるとは、つらい批評家の商法だ。これをつらがるに準じて批評というものは光るものであるらしい。やり切れない事実である」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

posted at 18:58:30

9月12日

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佐藤正美@satou_masami

「歌は人を傷つけぬ。批評は人を傷つける、いや傷つける振りをする。『自分のことは棚に上げて何だ』、言いさかいは棚に上げっこだ、自分を棚に上げれば上げるほど、相手の上げているのが眼につく。口論はこの領域に最も繁栄する」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

posted at 18:55:58

9月12日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

「他人を どうこう言うのは好きじゃない」とか「他人を傷つけたくない(他人の自尊心を損ねたくない)」という ひとは、批評などしないでしょう。そして、そういう意識を持っている ひとが、ぬきさしならぬ理由で批評しなければならないとしたら、辛いにちがいない。

posted at 18:52:46

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