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筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

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2019年12月31日(火)143 tweetssource

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

これな、人間だってそうなんである。過去は事後的・遡及的である。

えとですね、離婚したひとを考えればわかる。離婚したひとで、相手が悪いと言ってるひと、見たことないですね。

そうではなくて、過去が改変され、「はなから本当の愛ではなかった」となっている。 twitter.com/HikkenDokugo/s

posted at 23:11:03

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

合計、だいたい、6千年前だが、しかーし、もっと古い化石がみつかるぞとか、ドヤ顔で言うバカってのいるわけだが、そら、IQ=0である。そんなんで人間やってて楽しいのか? 

当たり前だが、神は6千年前に、一気に、30億年前の化石とかとかを創った、過去を創ったのである。

ブンケーなら当たり前だ。

posted at 22:55:02

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

なお、世の中にはバカってものはいて、たとえば、キリスト教では、天地創造(←人間を除く、人間を例外とする世界の創造)が人間の創造、てか、男(アダム)の創造の5日前、女性は無視して、アダムからアブラハムまでが2千年、アブラハムからイエスまでが2千年、イエスから今日までが2千年、つまり、

posted at 22:52:10

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

フロイトが、無から有に「ちょーじが」って書いた途端に、広く一般に知られているがごとく…なわけな。創造してっから。だから、フロイトが、おれらの思考ってことを可能ならしめているわけな。そも、おれらが思考できるというのは、フロイトのテクストがあるからなのな。

posted at 22:47:36

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

つまり、マルクスとかフロイトとか、共通言説性の創設者、えとな、おれらの思考つーもんを可能ならしめた共通言説性それ自体を創設したひとの書き方ってのはそゆものであり、

フロイトが超自我あれ、つーたら、したら、超自我があった、わけなんで、定義は?もクソもないんである。

posted at 22:44:52

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

のだが、えー、フロイト先生、あなた、人生で、いまだかつて、そんなことゆうたことありまへん。てか、超自我っていう単語、初登場です! ので、周知の通りも何も、いまだかつて、超自我ってなあにの説明があったことありません。(もちろん、その後、読み進めてもフロイトが死ぬまで定義はない)。

posted at 22:43:17

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

ちなみに、フロイトのテクストってのは、「光あれ、すると、光があった」式だね。

たとえば、フロイト全集、てか、フリースへの手紙とかな、全集に入ってないあらゆるテクストを全部読んでいったとして、あるところで、「ところで、周知のごとく、超自我の出自は声であるから…」とか、出てくる twitter.com/HikkenDokugo/s

posted at 22:41:50

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

んで、ひとは、自分が知らんことしか書かないのがむしろ普通と思われる。知っていることを書くというのは、時間もエネルギーもなんもかも、100%無駄であり、人間、そんな無駄なことはしない。

(除く、ネトウヨ)

posted at 22:37:31

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

(ま、書いている途中で、あ、そか、単に手がすべったってこともありえるのか…と気がついてしまったのだが、ま、いずれにせよ)

定義をゆうてから、書け、とか、問題の所在を明らかにしてから、書け、とかに、なってしまうリプはクソリプになる。

posted at 22:36:13

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

(えと、輪廻って単語がでてきてるから、「我(が)」つまりサンスクリットのアートマン(Ātman)とタイプしようとして、手がすべって、フィヒテ哲学用語の自我、ドイツ語のイッヒ(ich)という普通にはじぇんじぇん関係ないことをタイプしてしまったか…)

posted at 22:33:42

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

「自我」ってことばを、定義なく、ま、その漢字二文字は、フィヒテ哲学用語以外にこれまでの日本語では誰も使ってないに近いが、ま、あと、フロイトか、そのくらいしか、過去には用法はない、まあ、哲学、精神分析用語ではあるのだが、ここでは、完全に無定義、まだ、中身を筆者がなんにもしらんXと

posted at 22:29:40

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

つまり元ネタは、著者が何か、自分がわかっていることを言ってないわけで、そうではなくて、もっとクリエイティブなんで、

光りあれ、すると、光があった

式なんだよね。

posted at 22:27:23

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

とかゆうたりするとすんじゃん。それな、クソリプじゃな、クソリプ。えと、悪意無く、ほんまにわかんないなぁ~ってことだとして、そんでも、クソリプである。

えと、元ネタな、ゆうて、いきなり「自我」と、定義なしに、唐突にゆうていることは明らか。そこで、定義してから言えはクソリプ。

posted at 22:26:31

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

ないように思いますが…。そういう定義でお使いではないのですよね…? 意味が通じないので…。もちろん、誰でもどのように言葉を自由に定義して使ってかまわないのですが、「自我」のような、ひろく一般に厳密に定義が決まっているような、哲学用語、術語を、別の意味でお使いになるのはどうかと…

posted at 22:24:47

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

たとえば、私のTLに一日前に現れたツイートで

> 自我が輪廻の主体みたいに思ってる人は多いんだなあ。

とある。ここにクソリプをつけて、うーん、すみません、「自我」という言葉の定義は何ですか?えと、辞書的には「自我」という漢字二文字は、フィヒテ哲学用語以外の意味では、日本人使って

posted at 22:23:02

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

うーん。そういうひとは、自分が既にわかってしまっていること、自分が知っていることを、なんで、書かなきゃいけないの?てか、そんなことに、タイプするエネルギーをかけるという発想がないため、そゆひとは、すでに、というか、いつでもつねに、自分が知らんことだけを書いていると思うけどな。 twitter.com/hitoshinagai1/

posted at 22:19:51

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

その場合、簡単に、わたしはあなたを愛しています、とは、いいにくいわね。なぜなら、その場合、愛しているというのは、100%、侵襲的てかな、単に純粋に暴力になってしまうからなぁ。

posted at 22:17:06

12月31日

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筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

ので、現前僧伽は、四方僧伽との感応道交の中にあるのは、もはや自明。

(地上の教会は天の教会との霊的な交わりの中に存する)

たぁだぁし、実際におれらが、いま、教会やらお寺やらに集まっていて、マジに、死が終わりじゃない、という不死のみ教えが、ほんまにどんなリアリティよりもリアルに経験

posted at 21:37:15

12月31日

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わたしたちには、もうすでに6字が与えられている!ってことなんであって、ここには、おれらしかおらんのも自明であり(6字の背後に、6字を離れて、佛さんが、別途、本体が、極楽浄土におったりしないため)、ので、

誰が誰を救うのか?

が正しい問い。正しく立てられた問いは応答を含むため、

posted at 21:34:08

12月31日

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浄土真宗は、救済の出来事はすでに起きた! マジで! 椅子から転げ落ちました、驚愕!っていう、ま、非常識な、教えなので、そうすると、「いつ救われるのですか?」という問いは解消してしまっているので、それ、なう!てか、「間に合ってない」(という伝統的な決まり文句ある)わけなんで、

posted at 21:32:19

12月31日

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筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

> ただ、6字、ことばだけのものになってくだされたことにより

なんでそこまでしてくだされるのか、なんで、向こう側からぐいぐいくるのか?ってのは、ま、そら、謎ちゃあ謎だが、ま、そら、

恩寵

としか言いようがないでしょうな。

posted at 21:30:16

12月31日

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筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

「 聞其名号 、 信心歓喜) 」が他力回向の信心(まことのこころ)なので、えとな、ただ、名号が、おれらを離れて、真空中に成就、成立してるってことは、ない。

posted at 21:23:30

12月31日

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浄土真宗の場合は、ただ、6字、ことばだけのものになってくだされたことにより、佛は、真に、《佛に》成られたのだ、っていう理路なので、

(本質は現象したちょうどその分だけ《本質に》成るのだというロジック)

posted at 21:20:51

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

ので、まあ、ゆうて、

わたしたちはもう大人だったのだな

ってことなんで、ま、

いきなり、

(畏れるな!)

隣人愛を実践してええことになんだな。ま、福音を伝えりゃあええわけよ。イエスのみ名を伝えるとか。

神の愛に叶わんとして。

posted at 21:19:13

12月31日

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筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

出離の因も縁も絶無な、そゆ、このわたしに、因も果も、まるっと、まるごと、回施されとんだってこったね。そらなんでですかてと、阿弥陀佛の身体に外部がないからでしょ。一切衆生悉有仏性と見る佛の自内証に外部がないから。自境界の中だからですわね。

posted at 21:13:33

12月31日

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そゆアホなシステムになってるとすると、一世代、アホばっかな場合、終わってしまう。なので、そんなアホな制度設計は絶対にされておらず、

誰でもその担い手になれる

ように、そのように、制度設計されているのだ、という、知見じゃな。

カリスマのレジェンドをたたえましょうでは、ない、って

posted at 21:09:16

12月31日

@HikkenDokugo

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ってこっちゃね。えと、もしも、ひとがひとである限り、じぇーーーったいに忘れてはならんことがあって、じぇったいに未来のひとびとに伝えないとならんっていう場合、そのとき、すっげー頭がいいやつしか、伝えられないというような、そういう

制度設計に

なっているはずはない、ってことだね。

posted at 21:07:55

12月31日

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筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

であるとすると、したら、その定義の場合、称名念仏は、行ではない(大行である)。すと、ま、仏恩報謝つーことになっとるわけだが、えと、ま、ですから伝言ゲームしなさいってことそれ自体が、メッセージなのであって、断じて、コンテンツの話をしてない、ま、だからわかるわからんって話をしてない

posted at 21:05:21

12月31日

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筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

まあ、そらそでしょな。えと、浄土真宗の場合、名号と称名念仏を厳密に区別するわけで、そらなにをゆうてますかってと、なんまんだぶって口でゆーってのは、成仏するという外部に別途、離れて、在ると想定される目的の為の手段ではない、ってことがある。えと、仮に、行ってのを、成仏する為の手段

posted at 21:03:23

12月31日

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筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

まあ、四方僧伽ではなくて、現前僧伽に参与してるってのは、そら、救済され得ない(救済されることが不可能な)このわたしが、そのまま、そのまんま救済の装置である、という、御法義からしても、ま、伝えなさいというコトそれ自体、伝言ゲームしろってことそれ自体がメッセージってことからして、

posted at 21:01:28

12月31日

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『日本的霊性』というもんのすんげええ退屈な本あるんだけど、そこで、唯一、一カ所、おお、おもしれーってとこあって、だったら、なんで、お寺に集まってなんまんだぶゆってんのかなぁ~、ひとりひとりが自宅でゆってていいじゃん、わからん、これ、あとで考える、自分の宿題!みたいなとこあんだけど

posted at 20:50:04

12月31日

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浄土真宗だと「回心(えしん)ということ、ただひとたびあるべし」というめちゃめちゃに有名なフレーズあって、ま、したら、「真の教会」に連なるということは回心したその瞬間にもう起きているわけよね、浄土真宗てきに言えば。えと、信心獲得、不退転とは、摂取不捨で現生正定聚だから。鈴木大拙の twitter.com/ichurch_me/sta

posted at 20:48:06

12月31日

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再臨、めっちゃ切迫してます!マッハ千で来てます!となぜ自分はすげーいわねーんだ…ってことにもなり、どんなリアリティよりもリアルに切迫してるっていう経験は、基本も基本なんだけど、うちの教会でゆうてないよなぁ~みたいになると思われ。(ゆうて彼らが正しいよね、おれが水で薄めてるてかな)

posted at 20:25:04

12月31日

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これ、牧師さんだと、せっかくこつこつやってきたのに、あれあると、みんなこわがってしまうじゃないの…てきなことは、そら、人間なので、まったくないってことはないとは思うんだけども、だけど、落ち着いて考えると、キリストの再臨は切迫してるわけで、そら、否定できないので、てか、キリストの twitter.com/numatakazuya/s

posted at 20:22:56

 

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12月31日

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無数の諸仏を供養する、えと、三世十方の諸仏を供養、三世十方の浄土に遊ぶのを、真実とゆーんですよ、つー。

ま、永遠に運動してやまないもの、ってのは、要するに

生きている

ってこったわね。

posted at 16:45:36

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

いわゆる極楽浄土なるものは、ほんまは、三世十方の諸々の仏国土たち、えと、無辺際、開放集合、排除されるものがない、含み容れられない含み容れが、終わらない、永遠に運動してやまないものを言うのだ、という意味なのは、自明。

posted at 16:43:31

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

単数形ではないというのは、「無量光明土」とご開山聖人は、ゆうておられるので、明らか。えと、その漢字5文字の並びは大蔵経に1ヶ所しかないため、どっからとっているかは、厳密に分かる。すると、元は、数えきれない、無数の、仏国土たち、ま、複数形なのは、自明。 twitter.com/shaku_jikai/st

posted at 16:40:32

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

そゆ話、モテモテだったのは、そうなんだろうけど、それ、ほんとに、ヴィジュアル系なのかなあ?も思うし、化粧がスゲーうまく、唇が真っ赤とか程度じゃねーの?とかも思うし、ま、立居振舞とかな。顔はほんまに美少年なのか?は、疑念あり。

posted at 15:34:51

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

ま、ぶっちゃけ、親鸞聖人の掛け軸とかを見ても、なんで、この顔の人の子孫に、ときどき、定期的に、てかな、絶世の美少年とか、絶世の美少女とか、が、出てくんだよ?は、今一つ、納得はできないわけだが。

posted at 15:31:00

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

の優位性てかな、思想、哲学、教義と、なんか関係あんのかよ?は、ゆうて、イミフではあるのだが、

くらくらしちゃう、ものすごい、妖しい魅力ありっ!

もう、お坊さん方から、お稚児さんに欲しいっと、なんもかもかなぐり捨てて、暴力で奪いにいかんでおれん、妖しい魅力!ってのは本願寺のウリ

posted at 15:26:28

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

あまりにも、妖しく美少年だったため、あっちの巨大寺院、こっちの巨大寺院で、お稚児さんに欲しい、拉致したい、誘拐したい、てきに、奪い合いとなり、武力衝突になるぐらい、そのぐらい、妖しく美少年。

どうだっ!本願寺スゲーだろっ!つー、本願寺公式見解ある。

ま、美少年が仏教のみ教えとして

posted at 15:22:47

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

全然、全く、関係ないんだが、浄土真宗の東西本願寺では、いやまあ、ほんまの初代は覚信尼公(親鸞聖人の娘)だが、ま、女性だからでしょうなあ、覚信尼公はパスして、、覚如上人が偉大!ってことになってんだが、覚如上人スゲーよレジェンドとして、絶世の美少年だ、どやあああという自慢話がある。 twitter.com/masayachiba/st

posted at 15:18:42

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

カトリックとか東方とかのでかいとこは、元旦に集まってもえーでしょうな。しかし、浄土真宗は、ゆうてプロテスタントなので、よほど、ヒエラルキーがきちんとしてる教区で、じゃ、別院で、元旦に、総礼、そこに欠席したら、プリントがもらえず、繰り読み、で、毎日、どれを読むかわからない!は無理

posted at 15:09:53

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

全然、なんにも関係ないんだが、真宗大谷派の東京教区で、真宗会館(ま、ゆうて、別院のようなもの)での修正会を、来年から元旦にやったらええんでは…とゆうた講師のお坊さんいらしたが、瞬時に、いや、元旦は、所属寺に集まってんで、したら、出席率が激減してしまいまんがねとみんなゆって没。 twitter.com/yagitani_ryoko

posted at 15:06:35

12月31日

@levinassien

内田樹@levinassien

以前兄ちゃんが「会議で面白い意見が出るのは4人が上限。それ以上になるといきなりつまらなくなる」ということを会社経営の骨法として語っていたことを思い出しました。

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12月31日

@levinassien

内田樹@levinassien

もう一つ面白かったのは小グループが4人までという話。4人を超えると誰かが学びから疎外されるそうです。
合気道の経験だとマジックナンバーは8。2人ずつ4組、4人での掛かり稽古2組、8人での掛かり稽古1組をまぜて回すと、疲れないし飽きないんです。なぜか。

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12月31日

@levinassien

内田樹@levinassien

凱風館では、門人たちに独立して自分の道場を持つことを勧奨していますが、それは「できない子をできるようにする」ことから最大の恩恵を受けるのが「教える人」だからです。佐藤先生のおっしゃる通り。

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12月31日

@levinassien

内田樹@levinassien

切りがないのでこの辺にしておきますけれど、佐藤先生の指摘は僕が合気道の指導でつねづね感じていることに重なります。ある技が「自分でできる」「ひとに説明できる」「ひとに教えられる」「できない人ができるようにすることができる」は微妙にレベルが違います。

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12月31日

@levinassien

内田樹@levinassien

「一般に教師は子どもの発言が活発な授業を好む傾向にあるが、『はい』『はい』と活発に意見が飛び交う授業ではすでにわかっていることを発表しているだけで、学びはほとんど成立していないことが多い。」

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12月31日

@levinassien

内田樹@levinassien

「『ねえ、ここどうするの?』という問いを発することから、学び合いが出発する。この質問に応える子どもは、つまずている子どものつまずきを理解し、つまずいている子どもがわかるように説明しなければならないし、その援助の言葉を受けて、わからない子どもは懸命に思考しなければならない。」

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12月31日

@levinassien

内田樹@levinassien

「どんな学びも個人で行われることはない。個人で行えるのは〈練習〉と〈記憶〉だけである。あらゆる学びは新しい世界との出会いと対話であり、対象・他者・自己との対話による意味と関係の編み直しであり、対話と協同によって実現している。」

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12月31日

@levinassien

内田樹@levinassien

「課題のレベルが高すぎて失敗した授業はほとんど見たことがない。ほとんどの授業の失敗は課題のレベルが低すぎることによって生じている。」
「校内の話し合いによって共通の理解に達することは不可能であると思う。特に困難を抱えた学校では、話し合えば話し合うほど仲が悪くなるのが現実である。」

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12月31日

@levinassien

内田樹@levinassien

お昼ご飯を食べながら佐藤学先生の『学校を改革する』を読んでいたら膝を打つようなフレーズがいくつも。ご紹介しますね。
(1)「声の大きい教師に優れた教育の実践者はいない。優れた教師は誰もが、もの静かな教師である。」

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12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

ま、いずれにせよ、いやそらな派祖と呼ばれるようになる方は…とかな、そゆことは否定はし切れないけれども、ま、ゆうて、高祖善導大師は不徹底、元祖法然上人は惜しい、そこ、逆だ!っていう、ま、わがことってのが、あるわけなのよね。

posted at 14:30:38

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

阿弥陀仏が主語てか主体で、そこに、南無がくっついてるわけね。ま、主体てか、したら客体あるのかてか、外部あるんですか、つーたら、その説明もおかしいわけだが。南無阿弥陀仏に外部がないわけな。もっとゆうたら。

posted at 14:09:40

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

なんやかやが、別途、ないので、そんなもん絶無のため、阿弥陀仏の方に南無がくっついてるわけな。阿弥陀仏が南無というと変ならば、南無阿弥陀仏が南無しろってゆうてるてか(日本語になってませんけどね、わたしの日本語力不足で)。

posted at 14:07:48

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

えとですね、願行具足という間違いは、それ、おれの願いてかな、ま、

おれが、阿弥陀仏に、南無してるわけな。

しかるに、西山上人からしたら、阿弥陀仏がおれらを南無してるわけなので、てかまあ、南無阿弥陀仏しろっていう勅命だけが、ご信心なので、法蔵願心を離れて、別に菩提心とか信心とか

posted at 14:06:22

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

と、西山義の派祖、善慧房證空上人( 1177-1247)は『述成』(または『述誠』でおっしゃっておられるわけなのだが、

× 願行具足
○ 行願具足

というキレッキレさである。

posted at 14:02:29

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

然れば往生を判ずるには、行願具足して往生すべきにて、一心廻願往生浄土為体と釈して、衆生の往生を以て彼の仏の成仏の体と心得る時、往生は決定するなり。

posted at 13:57:53

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

阿弥陀仏を体として、是に南無を具する所を、行願具足の、阿弥陀仏の南無にて、仏体が本となりて衆生を摂取するなり。是を念仏三昧の帰命の仏体に付くとは申すなり。

posted at 13:57:42

12月31日

@HikkenDokugo

筆硯独語(HikkenDokugo)@HikkenDokugo

グヒャ・アディシュティタ・ガルベー、スヴァーハー、オーム、マニ・ヴァジュレー、フーン、オーム、マニ・ダレー、フーン、パット。

● 鐘一打

とかで発音せねばならんこととなり、そら、無理がある。

posted at 13:19:04

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