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@Jinja_Kikou_Net

伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

Stats Twitter歴
5,072日(2010/05/11より)
ツイート数
37,485(7.3件/日)

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2018年01月31日(水)10 tweetssource

1月31日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

成願寺 (中野区)

開基である鈴木九郎は紀州出身の馬商人であったという。商売が成功し財を成し「中野長者」と。鈴木九郎には小笹という一人娘がいたが18歳で病死。娘を失った事を機に仏門に帰依。小田原大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受け1438年(永享10)に邸宅を寺院としたことが成願寺のはじまり。 pic.twitter.com/C9Vo0Y8c8M

posted at 07:22:35

1月31日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

もともと鈴木家は紀州藤代の熊野社の神官の一族であったが源義経に従い流転。
九郎は、当地を開拓にあたるとともに自身の産土神である熊野社を祀る。
明治時代の神仏分離令により成願寺より十二社熊野神社が分離。これが現在の新宿十二社熊野神社。

写真は成願寺境内
中野長者鈴木九郎ものがたり pic.twitter.com/EfhlA30w5Y

posted at 07:35:19

1月31日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

成願寺墓苑

境内墓地には「蓮池鍋島家の墓地」(蓮池鍋島家。蓮池藩は佐賀藩の支藩)がある。
鍋島家は、寛永16年(1639)に佐賀藩主鍋島勝茂の四男直澄が、蓮池に分封されたのを始祖とし、五万二千六百石を領していた。
中野の寺院で大名家の墓所があるのはここだけという。 pic.twitter.com/j4bISuETEf

posted at 07:51:16

1月31日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【新宿十二社熊野神社】
12so-kumanojinja.jp
折角なので新宿熊野さんにも。

成願寺を建立した鈴木九郎が自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祀ったことにはじまる。その後鈴木家は家運が上昇し中野長者と呼ばれ、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠る。
明治に神仏分離。 pic.twitter.com/jLnwZTvoYB

posted at 08:06:34

1月31日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

以上

今回、防空壕をご案内してくれました成願寺の僧侶さんが、
「多忙な時以外は防空壕の見学は可能ですので御遠慮なく…」
とのことでしたので、時代を超えて今に残る防空壕に御興味がございましたら、是非に成願寺さんに。

改めて、ありがとうございました!

www.nakanojouganji.jp/boukuugou.htm pic.twitter.com/vUG4qrhWRA

posted at 08:29:57

2018年01月30日(火)9 tweetssource

1月30日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【中野区 成願寺の防空壕】

中野長者の寺 多宝山成願寺(曹洞宗)
www.nakanojouganji.jp
中野区本町鎮座

先日、こちらの寺院に残る戦時中の防空壕(但し崩落防止の為に鉄筋にて補修済)を見学をさせていただきました。
普段は施錠してあり許可を得て成願寺僧侶立ち合いのもとでの見学となります。 pic.twitter.com/owBmTEGxOL

posted at 19:37:45

1月30日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【中野区成願寺の防空壕】

防空壕の長さは約30メートル。総面積は約80平方メートル。崩落の危険があった為、2000(平成12)年に鉄筋での補強工事を行っている。

壕の真ん中には6畳間ほどの小部屋がある。かつては多くの部屋があり、本堂や風呂・雪隠(トイレ)も備えた本格的な設備だったという。 pic.twitter.com/68SZUEIaZL

posted at 19:40:18

1月30日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【中野区成願寺の防空壕】

本堂の裏山を貫くように通路が設けられており入口は2カ所。本堂の隣の入口から見学。
防空壕は崩落の危険があったため鉄筋にて補修。鉄筋の合間合間に隙間がある。これは仏像を置くつもりでスペースを予定していたが赤土が脆いために現在は木の皮で塞いでいる、とのこと。 pic.twitter.com/qDaHvzNGwq

posted at 19:48:15

1月30日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【中野区 成願寺の防空壕】

昭和20年(1945)5月25日、東京大空襲(山の手空襲)をはじめ幾多の空襲に際して、多くの人々を救った防空壕は歴史の生き証人として今に残っている。
空襲で堂宇、仏像は全焼する中で、辛うじて御本尊様と御開山様と古文書や掛け軸・過去帳などの一部が防空壕で護られた…と。 pic.twitter.com/Bn7MlZ4Rvd

posted at 19:53:17

1月30日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【中野区 成願寺の防空壕】

快く防空壕をご案内してくださいました成願寺僧侶の方に感謝。防空壕に関する資料や御由緒書もありがとうございました。

成願寺住職 小林貢人さんの中学1年生向け防空壕や空襲に関する解説など
www.nakanojouganji.jp/backno/chugaku

中野区平和史跡案内
www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/101500/d0 pic.twitter.com/RpidqijBqu

posted at 20:48:45

2018年01月28日(日)6 tweetssource

1月28日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【佐世保海軍墓地】
駆逐艦初霜慰霊碑(昭和58年10月8日建立)
戦没者26名を祀る。初春型駆逐艦4番艦。初霜最後の艦長酒匂雅三少佐謹書。
大和の沖縄特攻に直衛艦として参加するも奇跡的に損傷を受けず佐世保に帰還。昭和20年7月30日宮津港において対空戦闘回避中に機雷触雷し大破着底し終戦を迎えた。 pic.twitter.com/LQ4iUcfD3G

posted at 22:43:34

1月28日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【佐世保海軍墓地】
第六十一駆逐隊 駆逐艦初月慰霊之碑(昭和59年10月20日建立)
第61駆逐隊司令天野重大佐・艦長橋本金松中佐以下355名の霊を祀る。
書は僚艦秋月艦長の緒方友兄大佐謹書。
秋月型4番艦。昭和19年10月25日レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)において小澤艦隊に属し撤退戦で奮戦し撃沈。 pic.twitter.com/LtcxZ3j3qa

posted at 23:01:16

1月28日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【佐世保海軍墓地】
駆逐艦涼月・冬月・柳慰霊碑の案内標。
上記3艦は北九州市若松区の高塔山に鎮座。その案内標が佐世保海軍墓地にある。涼月・冬月は大和特攻作戦に参加し2艦ともに佐世保に帰還。(涼月は大破後進帰還)
尚、涼月・冬月・柳は「軍艦堤防」として北九州の地で防波堤になっている。 pic.twitter.com/41Ntl1KzEx

posted at 23:13:39

2018年01月27日(土)11 tweetssource

1月27日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

「のらくろ館」(江東区森下)

先日、友人と一緒に「田河水泡・のらくろ館」に行ってきまして。
「森下文化館」の中に「のらくろ」の展示室があり。
www.kcf.or.jp/morishita/jose

戦前戦後の少年たちに愛された「のらくろ」
一度、全編通しで見てみたいんですけど、まだちゃんと読んだことがなく。 pic.twitter.com/5szgx02wrB

posted at 20:29:00

1月27日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

江東区森下の高橋商店街「のらくろ~ド」として盛り上がってます。
この平成のご時世に「のらくろ」に溢れる街ですよ。
素敵すぎます!

のらくろ
昭和6年(1931)連載開始。野良犬のらくろが、猛犬連隊へ入営して活躍する話。二等兵から大尉まで昇進し除隊。正伝では戦後は所帯を持ち喫茶店の店主へと。 pic.twitter.com/YcwJsak1Sr

posted at 20:43:14

1月27日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

@earlsophia おおお。渋いものをお持ちですね。
講談社の前身・大日本雄辯會講談社の雑誌「少年倶楽部」連載とのことでしたので、講談社復刻版で正解だと思います。
断片的には見たこと有るんですけど、なかなか通しで読める環境がなく(図書館にあるかも、ですね)
少年倶楽部系はいまでもワクワクしますw

posted at 20:57:55

1月27日

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【佐世保海軍墓地】
駆逐艦杉戦没者慰霊碑(昭和54年3月10日建立)
戦死者43名の霊を祀る。
戦時急造の松型駆逐艦7番艦。昭和19年8月竣工。護衛輸送作戦に従事。終戦を呉で迎える。復員輸送に従事したのち昭和22年に賠償艦として中華民国に引き渡され「恵陽」と改称。国共内戦で座礁し1951年に解体。 pic.twitter.com/Hj9MmTgS31

posted at 21:25:28

1月27日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【佐世保海軍墓地】
駆逐艦若葉戦没者慰霊碑(昭和55年10月24日建立)
戦没者93名を祀る。若葉最後の艦長となった二ノ方兼文海軍少佐謹書。
初春型3番艦。昭和9年10月竣工。
レイテ沖海戦では志摩艦隊に属し輸送任務に従事。志摩艦隊本体に合流するために航海中の10月24日空襲にて沈没。 pic.twitter.com/OOqDHwh1Yp

posted at 21:34:01

1月27日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

【佐世保海軍墓地】
第六十一駆逐隊 駆逐艦秋月戦没者慰霊碑(昭和56年10月24日建立)
戦没者208名を祀る。秋月最後の駆逐艦長緒方友兄大佐謹書。
秋月型1番艦。昭和17年6月竣工。昭和19年10月25日、レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)では小澤艦隊に所属し対空戦闘に従事。米機空襲により二つに折れ沈没。 pic.twitter.com/0PHLouRVPC

posted at 22:13:51

2018年01月26日(金)25 tweetssource

1月26日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

昭和18年5月6日
伊29は海軍特別根拠地隊指揮下サバン島サバン港入港。ボースは同地で日本行きの飛行機便を待ち5月16日に東京到着。
東京に到着後、ビハーリー・ボース後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任。のち10月21日にシンガポールで自由インド仮政府首班に就任。 pic.twitter.com/Iro84XEUQe

posted at 07:47:19

1月26日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

余談
伊29初代艦長は前述の伊豆寿一中佐
そしてニ代目艦長が有名な木梨鷹一中佐

伊29は木梨艦長の下で日独往復成功寸前まで行った潜水艦。昭和18年11月に呉出航し翌3月に独領仏ロリアン港入港。4月に帰路につきシンガポール7月入港。呉に向かう途中に米潜水艦により轟沈。艦長以下百余名戦死…

posted at 07:59:49

1月26日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

昭和18年11月
大東亜会議開催

左から
ビルマ国 バー・モウ
満州国 張景恵
中華民国(南京)国民政府 汪兆銘
日本国 東條英機
タイ王国 ワンワイタヤーコーン親王
フィリピン共和国 ホセ・ラウレル
自由インド仮政府 チャンドラ・ボース
※なお、インドはオブザーバー枠


commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Grea pic.twitter.com/2n2ZuOXDsq

posted at 08:19:20

1月26日

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@chusa1128 おおお、さすがカレー党の中佐殿であります!
∠(`・ω・´)

噂にはきいてましたが、まだ行ったことがないのです。

チャンドラボースのなんやかんやの流れで最後にちょろっと、中村屋のボースとナイルを(インドカレー枠?として)ちらりと触れる予定でした。

posted at 08:24:37

1月26日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

昭和19年
ボースが指揮するインド国民軍はビルマ・ラングーンに拠点を置き、同地にて河辺正三ビルマ方面軍司令官と面談。
のちに、河辺司令官及び牟田口廉也第十五軍司令官は日本軍によるインド侵攻のためのインパール作戦を決行することとなる。

posted at 13:38:48

1月26日

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一説にはボースのインド独立に賭ける意志に河辺司令官が惚れ込み、その壮図を見殺しに出来ないという情がインパール作戦の背景にあったともされている。
結果として、インド国民軍は日本軍と共同してインパール作戦及びビルマ戦線に参加するも日本軍ともどもに大損害を受ける。

posted at 13:42:48

1月26日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

昭和20年8月15日
日本の敗戦によりインド国民軍は連合国(イギリス)に降伏。

ボースの悲願であった日本と協力して英国からインド独立を勝ち取るという夢は破れ、チャンドラボースは新たなインド独立運動の協力先として(一説には)ソ連に亡命し交渉を行うつもりであったともされている。

posted at 13:47:12

1月26日

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昭和20年8月18日午後
台湾にいたチャンドラ・ボースは台湾松山飛行場から中国大連へ向かう予定であった陸軍九七式重爆撃機に便乗する。
しかし同機は台湾松山飛行場からの離陸に失敗し墜落。搭乗していたボースは重傷を負い台湾陸軍病院に搬送されるも癒えること無く永眠。

posted at 13:50:31

1月26日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

最後に立ち会ったハブビル・ラーマン大佐に残したチャンドラ・ボースの言葉
「私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。」

posted at 13:54:04

1月26日

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伊達JKN@神社紀行ネット@Jinja_Kikou_Net

ボースの遺骨は陸軍からインド独立連盟東京代表ラマ・ムルティに引き渡される。目立たぬように表向きは同じくインド独立に尽力していたビハーリー・ボース(中村屋のボース)の葬儀ということにしてビハーリー・ボース側近サハイ夫人宅がある荻窪周辺でチャンドラ・ボースの葬儀を行える寺院寺を探すが…

posted at 19:33:25

1月26日

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だが、敗戦直後の政情不安定のさなかでなおかつ米英を始めとするGHQの監視下で、各寺院は確実にイギリスにマークされるであろうチャンドラ・ボースの葬儀を行うことを拒絶。
そんななかで頂光山蓮光寺住職がボースの葬儀を行なうことを快諾する。 pic.twitter.com/pAQoWRBXgm

posted at 19:36:50

1月26日

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ボースの葬儀以後、蓮光寺によって遺骨は引き続き保存。
ボースとともにあったインド独立運動家の関係者は次々と「国家反逆罪」容疑でインド本国に送還されイギリスの裁判にかけられる(この裁判などからインド国民の英国反発と暴動がはじまり独立へと連なる)も、ボースの遺骨は日本に取り残され…

posted at 19:43:09

1月26日

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何度かインドへの遺骨返還運動が起きるも関係者にボースの死を信じたくない人々などもおり返還は難航。インド国内では度々ボース事故死の調査委員会などがひらかれていた。
ようやく2017年にインド政府はボースが「1945年8月18日、飛行機事故のため台北で死亡したと結論付けた」と正式回答に至り…

posted at 19:46:39

1月26日

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このあたりは日本とインドでの遺骨の取り扱いや考えの違い、インド人の物事に取りかかる時間軸の考え方など、意識のすれ違いなどもあったのかもしれず。

2004年には顕彰と遺骨返還運動などをしていた関係者高齢化のため「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が解散。 pic.twitter.com/PBYR4MLqvU

posted at 19:52:01

1月26日

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独立の英雄チャンドラボースの名はインドにおいても讃えられ、カルカッタ(コルカタ)国際空港は「ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース空港」と呼称。
インド国会議事堂ではガンディー(非暴力独立運動)、ジャワハルラール・ネルー(インド初代大統領)らの肖像画に並んでボースの肖像も掲げられている。 pic.twitter.com/Wj8ZWDGyF5

posted at 19:58:06

1月26日

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遺骨返還運動に関しては紆余曲折のさなかにあるようではあるが…

蓮光寺本堂ではネタジ(指導者)として愛された「スバス・チャンドラ・ボース」の遺骨が安置されており、
毎年の命日8月18日には、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの法要が蓮光寺にて引き続きとり行われている。 pic.twitter.com/rMj3ISB0qV

posted at 20:02:53

1月26日

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余談
もう一人のボース
ビハーリー・ボースは自由インド仮政府の指導者の一人。日本のインドカレーの父とも。インド独立連盟名誉総裁。晩年は体調を崩し、チャンドラ・ボースを後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍指揮権を移譲。ビハーリー・ボースは昭和20年1月21日に日本で病死している。

posted at 20:06:06

1月26日

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インドカレー
日本に伝わっていたカレーは英国式(軍隊式=いわゆる海軍カレー)のものでインドカレーとは全く別物であった。
日本のインドカレーの父とも称されるビハーリー・ボースは新宿中村屋の相馬家の婿となり昭和2年(1927)に新宿中村屋「純印度式カリー」を開発。
www.nakamuraya.co.jp/pavilion/produ

posted at 20:08:16

1月26日

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更にビハーリー・ボースの腹心として日本でインド独立運動を展開していたA.M.ナイルが戦後はパール判事の通訳なども務め、そして1949年に東京都中央区銀座に「日本初のインド料理専門店」として「ナイルレストラン」を開業。現在は二代目三代目が営業を続けている。
www.ginza-nair.co.jp/history.html pic.twitter.com/PIInk3wZiS

posted at 20:15:41

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