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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

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2021年01月26日(火)11 tweetssource

14時間前

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

「1948年11月に光華書店が発行した『中国抗戦史講話』も南京大虐殺を紹介しているが、旧日本軍の行為よりも国民党の軍が何も抵抗せずに南京から逃げ出した事実を重点的に取り上げている。だが、その後に出版された歴史書はいずれも南京大虐殺に触れていない」と南京師範大学の経盛鴻教授はいう。

posted at 20:33:51

16時間前

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

「凄惨な戦場の光景を眺めた第三国人は敗者に同情し勝者を憎んだかとも思いますが、このような感情に訴えた中国側の宣伝がいかに効果があったかは想像に難くありません。戦場で当然発生した戦死者までも、日本軍による残虐行為として世界に訴えたのでしょう。」(歩兵第二十聯隊第三中隊長・森英生)

posted at 18:33:30

18時間前

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

下関碼頭に勢多が近づきますと敵は収容に来た味方の軍艦と思ったらしく、銃をあげて歓声をあげておりました。わが方が八糎砲と機銃を射ち出すと初めて日本軍艦と気付いたらしく、勇敢に小銃を射ってくる者、銃を捨てて大慌てで上流方面に逃走する者…など大混乱を生じました。(砲艦勢多・関口鉱造)

posted at 16:33:57

20時間前

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

「わたしが南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して3ヶ月後のこと。当時、軍による箝口令(かんこうれい)が敷かれていた訳ではない。なぜ今頃こんなニュースが、と不思議に思い、各支局に確認をとったが、はっきりしたことはつかめなかった」(読売上海特派員・原四郎)

posted at 14:33:57

22時間前

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

【南京大虐殺】「中国軍は退却にあたり一般住民と混交し、しかも便衣に変装しているので識別が困難でした。南京陥落後、何日後か覚えていませんが、揚子江岸の下関に行ったことがあります。死屍累々で、実数は五、六千ぐらいではなかったでしょうか。」(歩兵第二十聯隊中隊長・池田早苗)

posted at 12:33:52

1月26日

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

【南京大虐殺】「一番怖いのは何といつても大砲だわ、支那軍は日本の大砲に随分悩まされてゐたやうですよ、十二日は市中の警備に当る少数部隊の支那兵を残すのみで街はそれこそ本当に死の街となつて無気味な静寂さだつた」(12月14日朝、パラマウント・メンケン、NYT・ダーディン両名の証言)

posted at 10:33:56

1月26日

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

東京日々新聞鈴木二郎記者は「私は12月12日に中山門より入城した。後続部隊が次々に中山門上で万歳をし、写真を撮っていた。中山門の上では盛んに捕虜が虐殺されていた」と証言。だが、福知山歩兵第20連隊森王琢中隊長は12日に中山門が敵兵で溢れていること双眼鏡で確認している。陥落は翌日。

posted at 08:33:40

1月26日

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

1941(昭和16)年、第11軍司令官(支那派遣軍)であった阿南惟幾中将の日記に「戦果に関する数字は慣例に従って3倍に計上した」(『南京戦史』)との記述があるとのこと。『戦闘詳報』に現れる数字の水増しは、将兵の間では常識であったらしく、概ね「3倍くらいかな」と功績担当の下士官。

posted at 06:33:48

1月26日

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

【南京大虐殺】国際法が専門の青山学院大学名誉教授・佐藤和男博士によれば以下は戦時国際法違反ではないとの判断。第百十四師団歩兵第六十六連隊第一大隊による捕虜1,657人の処断。山田支隊が幕府山付近で捕えた捕虜数千人の処断。捕虜の処断を法の素人が安易に「虐殺」認定してはいけない。

posted at 04:33:31

1月26日

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

「(雨花台には)半焼けの中国兵の屍体が四、五百遺棄されていた。その後、雨花台の激戦の跡を見て回ったが、各所で兵士の死体は見たが、非戦闘員の死体は見なかった。日本軍の進撃が予想外に早かったので、敵は屍体を城内に収容できなかったのであろう」(独立軽装甲車第二中隊本部曹長・藤田清)

posted at 02:34:06

1月26日

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

森隊長は、適正な捕虜取り扱い処遇について克く意見具申等に努めて、諸問題の是正改善を全うし、当時の立法院長・伍澄宇氏から、中国政府並びに中国々民を代表して感謝する、との表彰を受けた。(南京戦での首都防衛軍の将兵らを収容した南京俘虜収容所の所長をしていた森五十男氏についての逸話)

posted at 00:33:31

2021年01月25日(月)11 tweetssource

1月25日

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【南京大虐殺】金陵大学(現南京大学)病院医師マッカラム氏の日記及び手記。「(日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。私は時々一日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました。」

posted at 22:34:31

1月25日

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【南京大虐殺】私の踏査経路では虐殺の跡らしいものなどは見受けず、ただ城内に通ずる道路付近(太平門?)で地雷の爆発により、人および馬の死体が散乱しているのを見た。(19日頃、戦闘詳報の資料作成のため中山陵・紫金山中腹玄武湖の南側を経て城内に帰還した第一大隊本部先任書記・佐藤増次)

posted at 20:33:33

1月25日

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

【南京大虐殺】「掃蕩部隊から聞いた話では、便衣の敗残兵は、ほとんど退去した跡であり、掃蕩といっても遺棄された軍需品の収集や後片付けが主な仕事であったとのことです。」(歩兵第四十七連隊速射砲中隊長・安部康彦)陥落日またはその翌日くらいの城内の話。

posted at 18:35:21

1月25日

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

【南京大虐殺】「講堂らしい室内に入ると後送の余裕がなかったのであろう、取り残された重傷兵の枕辺に白衣の大勢の看護婦が毅然として立っていた。私は深く頭を垂れてそこを退去した。戦闘を覚悟して入城したがこの日は無血のうちに夕刻を迎えた」(陥落日に城内に進入した歩兵第十九連隊・土屋正治)

posted at 16:03:32

1月25日

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【南京大虐殺】「(市内の)交通部の前から2ブロック先までは、トラック・砲・バス・指揮官乗用車・荷馬車・機関銃・小火器がゴミ捨て場のように積み重ねてあった。日曜日(12日)いっぱい、中国軍部隊の一部は市内の東部および西北地区で日本軍と戦闘を続けた」(NYT記者・ダーディン)

posted at 14:05:03

1月25日

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「その日(14日)の夕方から夜にかけて、掃蕩洩れの敗残兵が苦し紛れに放火しだした。これにはさすがの勇士たちも東奔西走、消火にヘトヘトになった。12時すぎ、やっと一段落して寝ようとしたところへ、また情報が入った。『敗残兵が薪炭倉庫に放火、燃焼中』」(歩兵三十五聯隊中隊長・清水貞信)

posted at 11:33:31

1月25日

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【南京大虐殺】投降勧告を拒否した南京防衛軍の司令官唐生智は「本軍は複廊陣地において、南京固守最後の戦闘に突入した。各部隊は陣地と存亡をともにする決心で死守せよ」と下命し、憲兵と警察に対しては「隊伍を離脱した兵隊が制止をきかないで渡江しようとした場合には武力で阻止せよ」と命じた。

posted at 09:34:29

1月25日

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【南京大虐殺】南京城外に中国軍が設けた主要な抵抗陣地で激戦が展開され、日本軍は12日までに郊外の要衝(紫金山、雨花台、工兵学校など)を占領。その日の午後8時には唐司令官は麾下の軍に退却命令を出すとともに、自らも幕僚とともに脱出した。このため、中国軍は総崩れとなった。

posted at 07:03:32

1月25日

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【南京大虐殺】「夕闇迫る頃、難民収容所らしい司法行政院に行くと、真っ暗な建物の中には多数の難民達が揺らぐローソクの灯の中でうごめいている。私たちは施す術もなくそこを立ち去る。」(陥落日に中山門寄りの破壊口から城内に進入した歩兵第七連隊第二中隊・平本渥)

posted at 05:03:32

1月25日

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「南京にいる間(虐殺を)見たことがありません。戦後よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです。アウシュビッツのように殺す場所がある訳でもないですからね。私が虐殺の話を聞いたのは、東京裁判の時です」(報知新聞カメラマン・二村次郎)

posted at 03:03:32

1月25日

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【南京大虐殺】南京防衛軍の司令長官・唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し、すべての非戦闘員は国際管理下の安全区に集結しなければならない、と布告した。市内他地区での非戦闘員の移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可所有者を除いて、禁じられる。(NYT記者・ダーディン)

posted at 01:03:32

2021年01月24日(日)12 tweetssource

1月24日

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【南京大虐殺】陥落後の南京城内には、欧米の記者5名の他に、朝日新聞記者80名、毎日新聞記者70名他、報知、読売、同盟通信、新愛知新聞、福岡日々新聞、都新聞、福島民放、などの記者。さらに作家、詩人、評論家、画家などが入城している。この当時に大虐殺を目撃したという証言は無い。

posted at 23:03:32

1月24日

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「両岸からの中国兵の猛攻撃は続いていました。この頃から、ジャンクや筏に乗った中国兵が流れて来て、どんどん増えてきました。勢多には二十五ミリ機関銃が四門ありましたので、これを撃ちながら進みました。」(砲艦「勢多」艦長・寺崎隆治少佐)12月13日午前10時過ぎの様子。

posted at 20:33:34

1月24日

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【南京大虐殺】「門内に入ってみると、衛兵の番所らしい土間があり、一米角の囲炉裏に釣り下げられた大きな鍋の中には、炊き出しの野菜のゴッタ煮がある。これを頬張り、飛行場を横断して中隊は市街掃蕩の先陣を進む。」(中山門に突入して敵兵が残した食事を食べた歩兵第七聯隊第二中隊・平本渥)

posted at 18:33:34

1月24日

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「城壁こそ砲撃によって破壊されていたが街並の家々は全く損壊しておらず、瓦礫ひとつ落ちていない。ただ不気味な静寂、異様な寂寞感が我々を包み、勇敢な部下も一瞬佇んだ。未だかつて味わったことのない言葉で言い表せないこの静けさは、いつの間にか私を中隊の先頭に位置せしめていた」(土屋正治)

posted at 16:34:01

1月24日

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マギーは東京裁判で「あちこちで殺人が行なわれていた」と証言したが「あなた自身が目撃したものはありますか」と聞かれ「一つだけあります」と答えた。しかし、それは日本兵が、民間人に化けた中国兵の掃討作戦中に、不審な中国人をみて身元を尋ねると急に逃げ出したので、撃ったというものだった。

posted at 14:34:15

1月24日

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難民区内は名物の泥棒市や露天商、マーケットが軒をならべており、大方巷の一角など早朝から喧騒を極めていた。当時すでに人口は50万近くにふくらみ、昔からの色街の秦匯街あたりは日本人経営の料亭や食堂の女性が夜の南京の街を浴衣姿で歩いている風景さえ見られた。(昭和13年8月・田中正明)

posted at 12:34:42

1月24日

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「(スマイス調査について)戦争直後のこの科学的な貴重な証拠を東京裁判は却下した。その理由は死亡者数があまりにも少なかったからである。以後『虐殺派』はこの第1級史料である調査データを用いることをしない」(田中正明)スマイス統計調査では、両軍兵士の暴行による市民の死者は2,400人。

posted at 10:33:51

1月24日

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14日、下関で捕えた中国兵に山本隼人大尉(第6中隊長)は演説した。「君達は良く戦った。然し、もう戦いは終ったんだ。御互い仲良くせにゃいかん。蒋介石総統はよう懲せにゃいかんが、君達忠勇な将兵には怨念はないのだ。宜敷く武器を捨て鍬(くわ)をとり、新中国新平和の建設に働き給え」

posted at 08:34:04

1月24日

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【南京大虐殺】「城内に閉じ込められた中国軍の大多数は、もはや戦う気力を失い、数千名の兵士が武器を捨てて安全委員会に出頭した。委員会は、当時日本軍が捕虜を寛大に扱うものと信じて、彼らの降伏を受理した」(NYT記者・ダーディン)だが、第三者である国際委員会に降伏を受理する権限はない。

posted at 06:33:48

1月24日

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南京以外では日本軍の非行が外国人によってここまで喧伝されたことは無い。ドイツ人記者リリー・アベックは『支那の革新』の中で「南京以外では日本軍の規律の厳正さは非の打ち所が無かった」と書いている。リリーは11月に南京を離れており、伝聞によって知った「南京事件」についての感想である。

posted at 04:33:53

1月24日

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【南京大虐殺】「歩兵第十九聯隊、第三十六聯隊に関する限り、13日の城内進入後は戦闘行為はなく、捕虜を捕えたこともない」(歩兵第十九聯隊第四中隊長・土屋正治)土屋氏の部隊は、南京城南東に位置する光華門から進入している。

posted at 02:33:47

1月24日

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【南京大虐殺】「元中国軍将校が避難民の中に〜大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」「南京で掠奪したこと、避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人などの前で自白した」(1938年1月4日ニューヨーク・タイムズ)

posted at 00:33:52

2021年01月23日(土)12 tweetssource

1月23日

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【南京大虐殺】十二月十四日、前日中山門から入城した第二十聯隊第四中隊が安全地帯近くに差し掛かると、安全地帯の中で狼藉を働く中国軍敗残兵の取り押さえを、市民に懇願されて行い、約二百名を捕獲し、これを玄武門に連行処分した。(京都旅団で通信班長をしていた犬飼総一郎氏の証言)

posted at 22:33:50

1月23日

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【南京大虐殺】南京攻略戦に参戦された須山道男さん(76)は「入城式のあった(昭和12年12月)17日の午後からは、銃も持たずに支那人街の露天をひやかして歩いた経験があります。この写真のように子供も大人も手製の日の丸の腕章をつけて、私たちに近づいて来ましたよ。」と言う。

posted at 20:34:00

1月23日

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【南京大虐殺】2013年12月18日の中国・南方都市報は、南京師範大学で中国史を教える経盛鴻教授の話として「ここ南京でずっと学んでいるが、私が学生の頃は南京大虐殺を教える教師などおらず、教科書にも中国近現代史の本にも南京大虐殺に関する記述はなかった」との記事を掲載した。

posted at 18:33:32

1月23日

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【南京大虐殺】「残念ながら南京戦における若干の婦女暴行につきましても、慰安所が開設されるまでの短期間に発生した事件であります。中国側が抗議し発表した事実や写真についても、当時の実情とは著しく相違しています。」(第二野戦高射砲兵司令部副官・石松政敏/証言による「南京戦史」)

posted at 16:33:56

1月23日

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「私は13〜14日頃、単車で市内に入ったが、大体平穏でした。一万二千人の女子供を含む非戦闘員の殺害の跡など認めませんでした。第一、住民はおらず、そんなに多数の殺害などできるはずがありません。13日に市内に進入したわが軍の兵力から見ても不可能です。」(上海派遣軍参謀・榊原主計)

posted at 14:34:31

1月23日

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「当時の小・中隊長級の人たちに問いただしたが、その返事は次のようであった。(3)13日の夜は掃蕩のための銃声や戦車での活動が激しかったというが、あの晩は激しい銃声は聞かなかった。それよりも一晩に二度も放火されて、引っ越すのに苦労した」(第三十五聯隊第二大隊本部附中尉・野村敏明)

posted at 12:34:25

1月23日

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【南京大虐殺】「城内に閉じ込められた中国軍の大多数は、もはや戦う気力を失い、数千名の兵士が武器を捨てて安全委員会に出頭した。委員会は、当時日本軍が捕虜を寛大に扱うものと信じて、彼らの降伏を受理した」(NYT記者・ダーディン)だが、第三者である国際委員会に降伏を受理する権限はない。

posted at 10:33:32

1月23日

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【南京大虐殺】「(13日の)城内進入後、12月31日までの間、私の中隊は聯隊主力と離れて行動し、雨花台の戦闘で敵陣に突入後、行方不明になった一名の兵隊を探し求めて城内全域を歩き回ったが、死体は殆ど目にしなかった」(歩兵第十九聯隊第四中隊長・土屋正治)

posted at 08:33:43

1月23日

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【南京大虐殺】「当時の小・中隊長級の人たちに問いただしたが、その返事は次のようであった。(1)城壁上に敵兵を並べて城外に突き落としたといわれるが、そんなバカバカしいことをやるはずがない。」(中山門での戦闘に参加した歩兵第三十五聯隊第二大隊本部附中尉・野村敏明)

posted at 06:33:31

1月23日

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【南京大虐殺】12月10日の朝日新聞「何となればその敵は確かに一時的には侵入者であるには違ひないが決してこの土地を植民地にして了はうとは考へてはゐないのだから、支那軍によって破壊されたところのものは即ち彼等祖先が額に汗して孜孜勉励刻苦、何代かに亙って蓄積したものなのである。」

posted at 04:33:58

1月23日

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【南京大虐殺】1938年、ティンパリー編著の『戦争とは何か』という本が出版されました。この中で「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴え、その後の日米戦争の一因となった本です。しかしティンパリーは上海にいた人で、南京にはいませんでした。

posted at 02:33:32

1月23日

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「中山路は市中央の幹線道路で各所に戦渦の跡が見られ、余燼がくすぶっているところもあったが、街は静かで人影を見ず、途中で憲兵と紅色の袖なしを着て背中に卍字と描いた中国赤十字会員の一群に出会った。この道筋では死体などひとつも見なかった」(独立軽装甲車第二中隊・藤田清)14日の証言。

posted at 00:05:17

2021年01月22日(金)11 tweetssource

1月22日

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【南京大虐殺】(南京への進撃途上で)「第九師団は湖沼地帯を突破し蘇州に近づいている。蘇州にはなお相当の住民が残留している模様」との航空投下通信文を受け取った松井司令は大西一参謀にこう指示した。「貴官は直ちに蘇州に急行して、蘇州の文化と住民を守れ」大西は日本軍の入城を禁じた。

posted at 22:04:08

1月22日

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【南京大虐殺】「市内じゅう軍服、ゲートル、帽子が散乱していました。これはすごい数で一番目に付きました。中国兵が軍服を脱いで市民に紛れ込んだのです。中国兵にしてみれば、軍服を着ていると日本軍にやられますから当然とおもいます」(軍司令部付岡田尚通訳官による12月13日の目撃談)

posted at 20:04:43

1月22日

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【南京大虐殺】「翌年の一月十日までいました。この間、南京のあちこちに行きましたが、虐殺と言われることは見てません。また、強姦もあったと言われますが、既に慰安所ができてましたから、戦後言われていることは噓です」(陥落日に第13連隊とともに城内に進入した大阪毎日新聞・五島広作記者)

posted at 18:03:33

1月22日

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【南京大虐殺】南京城外での戦闘終了後の城内の掃蕩に当たって松井司令はこう指示した。「青壮年は全て敗残兵または便衣兵とみなし、全てこれを逮捕監禁せよ。青壮年以外の敵意の無い支那人民、特に老幼婦女子に対しては寛容の心をもって接し、彼らをして皇軍の威風に敬迎させよ」

posted at 15:34:04

1月22日

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【南京大虐殺】巷間伝えられている下関での殺害というのは、(安全区から)摘出した便衣兵処分ではないかと思います。入城後数日、下関で毎日捕虜が処分されているという噂を聞き、また実際にその光景を見ました。(第二野戦高射砲司令部副官・石松政敏)

posted at 13:34:15

1月22日

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【南京大虐殺】1937年12月9日、日本軍は「和平開城ノ勧告文」を南京城内に飛行機で撒布。国際法に則って“無防備都市”つまり「防守都市に非ず」と宣言して開城すれば攻撃しないと通告した。しかし、翌10日午後1時の回答期限に至っても何の回答もなかったので日本軍は総攻撃に踏み切った。

posted at 11:33:55

1月22日

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【南京大虐殺】南京戦に参加した梶村止少尉の1938年1月15日の日記によると、上海付近に駐屯していたとき、近くの村人が中国兵に襲われ、梶村少尉の隊に救いを求めてきました。しかし村人に案内され、梶村少尉一行30余名が現場に急行したときは、敵の40~50名が逃走したあとでした。

posted at 09:33:32

1月22日

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【南京大虐殺】将校たちは支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから(安全区の)女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中にライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に弾薬も隠していたが自分たちのものであると自白した。(1938年1月3日NYT)

posted at 07:33:32

1月22日

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【南京大虐殺】安全区の中で多数の中国人が日本軍から「良民証」の交付を受けるために殺到している様子が東宝文化映画部制作の映画「南京」に記録されている。これは1937年12月24日〜翌年1月5日までの間に行われた「兵民分離」のひとコマであるが、中国人市民に日本兵を恐れる様子は無い。

posted at 05:33:57

1月22日

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

【南京大虐殺】戦後に南京事件の責任を問われたのは、松井大将、谷寿夫中将、田中軍吉大尉、向井敏明少尉、野田毅少尉の5名。A級およびBC級戦犯の有罪判決総数4,372に占める比率は0.11%、中国の法廷での有罪判決総数504に占める比率は0.99%。大虐殺と称する割には扱いが小さい。

posted at 03:34:10

1月22日

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南京の嘘bot@Lie_of_Nanjing

南京城外の戦闘は、12月8日〜12日にわたって行われ、前線の中国軍は逐次後退したが、この間、揚子江を渡って江北や、汽船によって遡航し、漢口方面に撤退した兵力も相当数と推定される。海軍航空隊は揚子江上流にて二隻撃沈し、多数に被害を与えた。うち、二隻が実は英米艦で外交問題となった。

posted at 01:34:43

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