亀の顔をじっと見ますと、なかなか特徴的な不思議な微笑を浮かべています。人間の知らない太古の秘密を亀だけが知っている、そういう笑いですね。 『三つの鏡』
posted at 23:33:59
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亀の顔をじっと見ますと、なかなか特徴的な不思議な微笑を浮かべています。人間の知らない太古の秘密を亀だけが知っている、そういう笑いですね。 『三つの鏡』
posted at 23:33:59
これは(日本で)近い将来に十分ありうることですが、経済が少し傾けば、そうすればいわば全国民的な神経虚脱症を引き起こしてしまうのではないでしょうか。個々の人間が、近代工業社会の過度の要求にまいってしまうと思うのです。 『エンデの文明砂漠』(管理者注:1991年に出版されたもの)
posted at 23:04:16
(日本では)従来の古い美徳観念が、近代的工業社会の原理と混ざり合ったのです。連帯意識一般や領主に対する忠誠は、今日では企業に捧げられています。しかし、これはこの先、葛藤を生むと思います。この二つは、本来相容れないものです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 22:33:42
正義についても(真理や善と)事情は同じです。それは私たちの中に生きているのですが、しかし、それは理念―プラトンがイデアと定義したものですが―なので、同時に私たちの周りの精神宇宙にも存在するのです。しかし、それを物質的価値と同じ意味で、外的・内的と想像するのはよくありませんね。
posted at 22:02:38
ゲーテは色彩は原現象だと言っています。知覚の後ろに何があるかを問うのは無意味なことだ。なぜなら、その後ろには次々と観念が形成されるのですが、それらの観念もまた知覚から得られたものだからです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 21:34:47
知覚と思考は、人間の意識全体の基礎です。私たちは思考で持って思考の後ろに達することはできず、知覚で持って知覚の後ろに達することはできないのです。私たちがそこで見出すものは、どこまでいってもまた、知覚でしかないのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 21:04:42
精神的なものはすべて人間が作り出さなければ、創造的に作り出さなければ存在しません。ですが、存在するようになれば、それは実在するものとなるのです。それは、生成する理念と言えましょう。真実もまた、生成する理念であり、「存在するもの」ではありません。 『エンデの文明砂漠』
posted at 20:34:36
世界と人間の意識は同一なのです。そこには差異はありません。それを、客観的実在と人間の意識を区別し続けることは無意味です。互いに単独では存在しえないものだからです。それは同じ一枚の硬貨の表と裏です。 『エンデの文明砂漠』
posted at 20:04:51
「二(Zwei)」とは「絶望(Verzweiflung)」に他なりません。言葉とは、しばしば人間よりも遥かに賢いものです。絶望とはいつも、無理の印を表しています。それは実体を根底に持たない虚構です。 『エンデの文明砂漠』
posted at 19:34:29
私達人間にも明るい側、すなわち光の側面があり、これは意識の側です。この面は私たちの理性・知性の側です。しかし、もう一方では人間の意志の側面があります。そして、意志は常に人間の中のとても暗い深みからやってくるのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 19:04:14
自然科学とは、人間の精神が自然全体の中から解釈したものです。もし精神が現実ではないのであれば、自然科学はとどのつまりあるはずもないのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 18:35:04
赤裸々でそのままの事実、この「事実」はそれだけではまだ人間にとって「現実」とは言えません。この事実に意味を与えること、一つの特定の関連において意味を与えることができてはじめて、この事実は現実になるのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 18:04:33
モラルとか道徳、善悪の問いは精神的な意味で捉えられたコスモスによって初めて得ることが出来るのです。ですから、この二つの極、科学と精神に関する知―私はそれを宗教と呼びますが―をもう一度結びつけることが重要なのです。それは科学者が宗教心を持つという意味では全くありません。『文明砂漠』
posted at 17:34:26
人間の自由とは、様々な創造力にあるのです。人間が因果律的循環を打ち破り、自由に自らのうちから創造できることにあるのです。それは決して芸術の分野に限りません。モラルの分野でも同じです。そこでは人間は、自らを規定できるのです。あくまでも、そこにこそ自由の瞬間はあります。『文明砂漠』
posted at 17:04:52
私は、古い形の宗教性や、古い形の文化や社会に立ち戻ることによって、物質主義や唯物論を克服しろ、と主張するわけではありません。私は、唯物論は本当にそれをその最終的帰結まで考えつくすことによってのみ克服できる、とするものです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 16:34:39
私たちが科学的尺度で人間を調査する、身体や神経の性質、感覚器官を調べる、それらは全て正しいのです。そのことを私はどうこう言おうとは思っていません。私に異論があるのは、それが人間の全てだと主張することです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 16:04:56
自然科学的思考は、質に属するものは排除しています。質的な要素を、自然科学は主観的であり、実体のない迷妄に過ぎないとしているのです。そのことにより、自然科学全体が救いようのない矛盾に陥ったのです。なぜなら、価値観をもたない思考など全く存在しえないのですから。 『エンデの文明砂漠』
posted at 15:34:52
私は、物質主義や唯物論自身がその思想全体に、死の萌芽を持っていると思うのです。なぜなら、それは途中で立ち止まっている思考であり、そのため、人間や世界の真の本質を把握しえないものだからです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 15:04:27
自然の中にある、精神的認識を目指す自然学は、原子爆弾をもたらさない。現代社会で我々がもつ、様々な化学工業をもたらしません。そのような自然学は、叡智と人間のさらなる発展、高次の発展をもたらします。 『エンデの文明砂漠』
posted at 14:34:43
今日の自然科学とゲーテのいう自然科学との違いは、実はゲーテが自然の中に作用している精神的な力を理解しようとしていたことにあるのです。この精神的な力は、人間の中に生きる精神的力の兄弟のような関係にあり、だからこそ自然への認識は自己認識になりうると、ゲーテは確信していたのです。
posted at 14:04:55
この世がある限り、自然は人間の教師であり続けます。これは疑いの余地のないことです。自然は常に芸術家の教師であり、知恵の教師です。私の見る限り、自然にないものがひとつだけあるようです。自然に付け加えなくてはならないもの、それは愛です。 『エンデの文明砂漠』
posted at 13:34:31
子供はおしなべて、まだ害されていない五感を持っています。私は自然の中に潜む精神的なものを認識するには、完成された理解力が是非必要だとは思いません。そうではなく、ただただ健康な五感が必要なのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 13:04:10
ここで子供時代から一番驚異だと思い、今日でも同じように驚いていることを話しましょう。それは「話すことができるということ」「理解できるということ」です。これはものすごく不思議なことですよ。 『エンデの文明砂漠』
posted at 12:34:04
人類の探求欲のすべて、いやそればかりか芸術のすべて、偉大な理念のすべて、哲学のすべては「驚き」から始まると私は思います。驚きは人間の中にある「永遠の子供らしさ」なのです。驚かなくなったとき、すでに人間は多かれ少なかれ生命を失っています。 『エンデの文明砂漠』
posted at 12:04:47
人間は際限なく新しい形を作り出せますし、際限なく新しい概念を考え出すことができます。これが、私がファンタジーをあれほど重要視する理由です。 『エンデの文明砂漠』
posted at 11:33:57
人間における本来の人間らしさは、この創造的なる能力にあると思います。人間とはこの世で唯一の創造的であり得る生き物なのです。つまり、本能とか生存規則とかに拘束されていない生き物です。 『エンデの文明砂漠』
posted at 11:03:54
生まれてきたのは、ある「誰か」です。勿論、この人間は、すぐには自分の身体を上手く動かすことはできません。学ぶべきこともたくさんあります。社会にも慣れ親しんでいかなければならないでしょう。しかし生まれてくる子どもが一人の完全な人格であることには変わりはありません。 『文明砂漠』
posted at 10:33:41
その試験地獄では、子供はひっきりなしに自分の有能さを証明せねばならず、ひたすら詰め込まなければならないのです。このことは将来悲惨な結果を呼ぶことになると思います。このままではノイローゼ患者世代を育て、彼らは、他の世代の人間以上の知識も教養も身につけられないのではないでしょうか。
posted at 10:03:46
現代の子供に関する考え方には大きな間違いがあると思います。それは生まれ落ちた子供は、いわば空っぽの袋であって、そこに何か詰める作業が早ければ早いほど、のちの中身は増えるというものです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 09:33:54
そのことで、どの子供も深い幻滅を味わうのです。この幻滅は深く意識されずに終わってしまいます。ほとんどの子供はそのことに気づきません。大人は、もっと気づきません。しかし、そこには残るものがあります。それは、幻滅や失望の味がするものだけが本当のことなのだ、という信念です。『文明砂漠』
posted at 09:04:46
私にとっては、一本の木は一つの化学プロセスより、遥かに多くのことを含んでいます。勿論、化学プロセスもそこに含まれますが、この化学プロセスはある精神力によって特定の形へ導かれているのです。この形によってはじめて木は木となるのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 08:33:55
この世界はエネルギーと物質からできていて、人間も根本的には同じなのである。魂のようなものは存在せず、自由、尊厳、美、ユーモアなどの概念は全て幻想に過ぎない。そのような考え方から、人間を必然的に解体する何かが始まったのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 08:04:43
私の本は、つまるところこの内世界の破壊問題を取り扱っています。言葉を変えて言えば、価値の喪失です。美的価値にせよ、倫理的価値あるいは宗教的価値にせよ、今日の文明はこれらの価値を破壊していったのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 07:34:19
私は、あくまでも楽観主義者です。人類がこの地球上でなすべきことを既に終了したとは思いません。何が問題かをまず理解し、知恵を総動員すれば、それは可能だと思います。人類が共同で解決方法を探し、共同でそれを行わなければなりません。 『エンデの文明砂漠』
posted at 07:03:41
変革する時間がまだあるのかと思案することは全くの暇つぶしにすぎないということです。私たちは、いつ、時が十二時を告げたのか知ることができないのです。それは、二十年後かも知れないし、百年後かもしれません。ただ私たちは可能なことを、今ただちに始めなくてはなりません。『エンデの文明砂漠』
posted at 06:33:47
単なる物質的観念や現世的観念を超えたものの存在なしには、つまり世界の意義観念や人間の意義観念なしには「希望」をもつことはできないということです。単なる物質主義からでは人は絶望せざるを得ません。ですから、生きることのすべての領域から、物質主義を克服しなければならないと思うのです。
posted at 06:03:29
私たちは、一種の具体的な預言者的能力によって、これから起こることを予見しなければならず、そこから自らの行為の基準を得なければならいのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 05:33:45
私にとってファンタジーとは、新しい観念を形成する、または、既存の観念を新しい関連形態におく人間の能力なのです。その意味では、私たち現代の人間にとって、具体的なファンタジーを発達させることほど必要なものはないのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 05:03:13
私たちが今行っていることの、恐ろしい結果の大部分は、私たちが生きている間に経験することはないでしょう。だからこそ私たちは、そのことに無頓着なのです。 『エンデの文明砂漠』
posted at 04:33:37
私達は、現実の経済及び工業生産が、常に成長し続けるように強制することがないお金のシステムを得なければなりません。現状の経済が、常に成長し続けること、しかも毎年最低3~4%の成長率があってこそのみ存在し得るものであるということは、私にはほとんど信じ難いことです。『エンデの文明砂漠』
posted at 03:33:45
ヘルダーリンの有名な言葉があります。それは「危険が増すと、救いもまた増す」というものです。人間が全地球を破壊できるという人類史上はじまって以来の新しいページに足を踏み込むことで、同時に意識の飛躍が起こるのではないでしょうか。 『エンデの文明砂漠』
posted at 03:03:14
だいたいグルたちの写真を一見するだけで、嫌ですよね。高慢で自己陶酔的なあの顔。彼らはそれなりに自己調和を得ているのかも知れないけれど、私はあのやり方を否定します。 『三つの鏡』
posted at 02:33:36
いけないのは、それじゃあヒマラヤに行って、みんな一緒に何日間メディテーションをしてこい(笑)、なんていう招待が、何々国際平和会議とやらから舞い込んでくることです。そんなのには即座に、操っているグル(導師)の匂いを感じて、不信感が生じます。 『三つの鏡』
posted at 02:04:39
これからの二十一世紀に重要になる尺度は叡智(Weisheit)です。人間によってその真理が経験された、と言えることが尺度になります。それ以外に真理はありえません。抽象的に「真理」といってみても、経験を欠いていては駄目です。 『三つの鏡』
posted at 01:34:14
私たちは内的な時間を尺度にすべきであって、外的な時間を尺度にすべきじゃないということだけは、再び学び直さなければなりません。私は『モモ』の中でそれを試みたわけですが、時計で測れる外的な時間というのは人間を死なせる。内的な時間は人間を生きさせる。 『三つの鏡』
posted at 01:03:57
象徴とは、解くことのできる謎(Raetsel)ではなくて、どこまでも解ききれない秘密(Geheimniss)ですから。秘密に満ちたものを求めることが、生涯にわたる父の課題でした。おそらく息子の私もこれを父から受け継いだと思います。 『三つの鏡』
posted at 00:34:15
アジアの思考法がおのずと発展していった場合の結末は、ヨーロッパ思考の結末とは違うところに向かったはずです。だから日本は、工業化社会に向かうにあたって、固有の文化の発展を一度、断ち切らなければならなかった、そういう運命を担いました。 『三つの鏡』
posted at 00:05:29