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@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

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Stats Twitter歴
4,776日(2011/03/03より)
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1,375(0.2件/日)

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2016年11月30日(水)1 tweetsource

2016年11月29日(火)1 tweetsource

2016年11月27日(日)1 tweetsource

2016年11月26日(土)2 tweetssource

2016年11月24日(木)3 tweetssource

2016年09月15日(木)1 tweetsource

2016年02月28日(日)1 tweetsource

2016年01月01日(金)1 tweetsource

2015年03月17日(火)17 tweetssource

3月17日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

東京裁判の判決では、「八紘一宇」は「一人の統治者のもとに世界の隅々までも結合する」「世界を一つの家族にする」という意味で、「伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもつた人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかつた」が、のちには「武力による世界支配の象徴となった」とている。

posted at 16:22:44

3月17日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

ところでアジ歴で極東国際軍事裁判の裁判記録を公開しているのはいいのですが、縮小し過ぎで読めないくらい字がつぶれているのはどうにかならないもんですかね。

posted at 16:16:23

3月17日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

『大東亜戦争とわれら』より:「大東亜戦争完遂の大目的は、国民こぞつてこの大御業を扶けまゐらせ、もつて東亜を安らかにし、世界に平和をもたらし、万邦が各々その所を得て、あひともに栄えゆくやうにすることであり、それこそは…「八紘を掩ひて宇と為す」の大精神に基づくもの」

posted at 16:04:11

3月17日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

「八紘一宇」の語源は『日本書紀』《神武紀》の「掩八紘而為宇」(八紘をおおいて宇[いえ]となさん)で、確かに字義通りには「天下をおおって一つの家にしよう」という意味ですが、実際は「立派な都作るよ」という程度の意味の漢文的文飾です(出典は『文選』所載「呉都賦」・「蜀都賦」)。

posted at 15:47:21

3月17日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

「八紘一宇の塔」のために集められた礎石は日本全国だけではなく、植民地(朝鮮、台湾、南洋群島)からも外国(中国、フィリピン、シンガポールなど)からも集められている。つまり塔の礎石自体が「八紘一宇」を示している。

posted at 15:34:51

2015年02月11日(水)4 tweetssource

2月11日

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長谷川亮一@望夢楼@boumurou

孔子紀元はキリスト教紀元への対抗を意識したのかもしれないが、黄帝紀元や檀君紀元は、発想的には神武天皇即位紀元の影響を受けているんじゃなかろうか。

posted at 18:30:19

2015年01月06日(火)8 tweetssource

1月6日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

@ishiwinozomu たとえば南鳥島の場合、目視記録は19世紀前半からありますし、単なる上陸記録だけなら1860年代から散発的に存在しますが、日本による領有(先占)や開拓利用を考える上で問題とされるのは、1896年の水谷新六による開拓の着手です。

posted at 21:37:11

1月6日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

@ishiwinozomu 古賀辰四郎の事蹟を検討するのであれば、1884年・85年の上陸(平岡説によれば架空の事件ですが)は一時的なもので、その後いったん中断があったのか、それとも1884年・85年以来継続的に事業が続けられたのか、ということで話が異なってきます。

posted at 21:33:04

1月6日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

@ishiwinozomu あるいは、尖閣諸島利用の歴史を考えるのであれば、個々の上陸記録が偶発的であったり、前後につながりのなかったりするものではなく、長期的に一定の利用傾向があることを示す必要があるでしょう。

posted at 21:29:41

1月6日

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長谷川亮一@望夢楼@boumurou

@ishiwinozomu この場合、無主地でなかったことを示すのであれば、「島の存在が知られていた」「上陸記録がある」というだけでは不十分であり、何らかの形で実効支配がなされていたことを示す必要があります。

posted at 21:24:58

1月6日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

@ishiwinozomu もし領土問題について論じるのであれば、問題はただ1点、明治維新以前の尖閣諸島は無主地であったか、従前からの琉球国の版図に属していたか、あるいは清朝の版図に属していたか、ということにかかってきます。

posted at 21:22:40

1月6日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

@ishiwinozomu お返事が遅くなりまして申し訳ありません。私が言いたいのは、「上陸」そのものは目視と同程度の意味しかない、ということです。何を考えるのか(琉球人の領域認識? 領土問題? 古賀辰四郎の事蹟確認?)にもよりますが、上陸目的は何かが重要なのではないでしょうか。

posted at 21:17:20

2015年01月01日(木)4 tweetssource

1月1日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

@ishiwinozomu ただ「上陸」それ自体にこだわるのは、あまり積極的な意味があるとは思えません(島がそこにあることは、古くから知られていたことですから)。むしろ琉球/沖縄側の認識を示す史料が出てきてほしいと思います。

posted at 01:14:39

1月1日

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長谷川亮一@望夢楼@boumurou

@ishiwinozomu ご教示ありがとうございます。寡聞にして当該研究は存じ上げませんでした。文献をあらためて検討した上で少し考えてみたいと思います。でも、古賀辰四郎の1885年(?)の請願書が出てきたとかいう話ではないのですね。ちょっと残念。

posted at 00:27:49

2014年12月29日(月)7 tweetssource

12月29日

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長谷川亮一@望夢楼@boumurou

えっ、『日本国語大辞典』には「パーデレ」の項がないのか!(「パーテレ」で記載。本文に「神父。バテレン。パードレ。」とあるが「パーデレ」無し。)

posted at 05:40:16

12月29日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

幕末・明治初期の年代表記は西暦と和暦のどちらを優先すべきかいつも悩む。しかもロシアは当時まだユリウス暦なので、さらに話がややこしくなるし。

posted at 05:27:31

12月29日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

桐敷真次郎『大浦天主堂』:「日本二十六殉教者聖堂」
『プチジャン司教書簡集』:「日本二十六聖人教会」
『世界大百科事典』:「二十六聖殉教者堂」
『大辞泉』:「二十六聖人殉教記念聖堂」
他に「日本二十六聖殉教者堂」「日本二十六聖人殉教者天主堂」など。

posted at 04:48:46

12月29日

@boumurou

長谷川亮一@望夢楼@boumurou

長崎の大浦天主堂の正式名称は L'Église des Vingt-six Martyrs Japonais というのだけれど(桐敷真次郎『大浦天主堂』中央公論美術出版、1968年)、定訳がないらしく日本語表記が文献によってバラバラ。

posted at 04:47:26

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