『「でもしか先生」は「デモしかしない」先生の略ではない』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/444458829.html…
posted at 02:20:17
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Stats | Twitter歴 4,776日(2011/03/03より) |
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『「でもしか先生」は「デモしかしない」先生の略ではない』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/444458829.html…
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『『当世書生気質』と野口英世改名の謎(6・完)野口英世は野々口精作にならなかったか?』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/444430338.html…
posted at 02:23:37
『『当世書生気質』と野口英世改名の謎(5)野口英世の虚像と実像』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/444386080.html…
posted at 20:48:19
『『当世書生気質』と野口英世改名の謎(4)知らぬは逍遥ばかりなり?』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/444362583.html…
posted at 23:25:33
『『当世書生気質』と野口英世改名の謎(3)『一読三歎 当世書生気質』』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/444334113.html…
posted at 00:04:19
『『当世書生気質』と野口英世改名の謎(2)野口清作が野口英世になるまで』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/444296778.html…
posted at 19:21:07
『『当世書生気質』と野口英世改名の謎(1)野口清作と野々口精作』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/444267540.html…
posted at 00:59:18
『活動再開』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/444267353.html…
posted at 00:49:35
『「望夢楼」移転のお知らせ』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/441954930.html…
posted at 17:46:39
『同時代史学会・第40回定例研究会のお知らせ』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/434357727.html…
posted at 05:19:54
『2016年』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/431927675.html…
posted at 00:03:23
というかこの東京裁判の判決、じつは西暦紀元前660年の日本建国を肯定していたりします。
posted at 16:28:58
出典:『極東国際軍事裁判判決速記録(和文)』1947年11月4日, JACAR http://www.jacar.go.jp/ ref. A08071311400 16画像目。
posted at 16:27:20
ただし、この件については検事側(連合国側)がさほど熱心に主張せず、弁護側(日本側)の主張がおおむね受け入れられたためと思われる。
posted at 16:24:44
東京裁判の判決では、「八紘一宇」は「一人の統治者のもとに世界の隅々までも結合する」「世界を一つの家族にする」という意味で、「伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもつた人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかつた」が、のちには「武力による世界支配の象徴となった」とている。
posted at 16:22:44
ところでアジ歴で極東国際軍事裁判の裁判記録を公開しているのはいいのですが、縮小し過ぎで読めないくらい字がつぶれているのはどうにかならないもんですかね。
posted at 16:16:23
『大東亜戦争とわれら』より:「大東亜戦争完遂の大目的は、国民こぞつてこの大御業を扶けまゐらせ、もつて東亜を安らかにし、世界に平和をもたらし、万邦が各々その所を得て、あひともに栄えゆくやうにすることであり、それこそは…「八紘を掩ひて宇と為す」の大精神に基づくもの」
posted at 16:04:11
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460177/18…
文部省教学局のパンフレット『大東亜戦争とわれら』(1942年)。戦争中の「八紘一(為)宇」の公式な使い方。
posted at 16:03:11
日中戦争勃発後は政府自身が積極的に使い始める。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266408/3…
『何故の支那事変』(内閣情報部、1937年)
posted at 15:57:51
で、この「八紘一宇」を満洲事変後に陸軍が使うようになり、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445446/7…
『満洲事変勃発満四年 日満関係の再認識に就て』(陸軍省、1935年)
posted at 15:57:31
これをもとに「神武天皇の精神にもとづく世界統一」という意味で「八紘一宇」という語を案出したのが、日蓮宗系の宗教運動家である田中智学。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/924913/351…
田中智学『日本国体の研究』(1922年)
posted at 15:53:11
「八紘一宇」の語源は『日本書紀』《神武紀》の「掩八紘而為宇」(八紘をおおいて宇[いえ]となさん)で、確かに字義通りには「天下をおおって一つの家にしよう」という意味ですが、実際は「立派な都作るよ」という程度の意味の漢文的文飾です(出典は『文選』所載「呉都賦」・「蜀都賦」)。
posted at 15:47:21
なお戦前は「八紘一宇の塔」、戦後は「平和の塔」と言いかえられていますが、正式には「八紘之基柱」(あめのしたのもとはしら)。
posted at 15:36:13
「八紘一宇の塔」のために集められた礎石は日本全国だけではなく、植民地(朝鮮、台湾、南洋群島)からも外国(中国、フィリピン、シンガポールなど)からも集められている。つまり塔の礎石自体が「八紘一宇」を示している。
posted at 15:34:51
参議院インターネット中継で確認したけど、三原じゅん子の発言もさることながら、「八紘一宇の塔」についての意味のない薀蓄を垂れ流しただけで、「八紘一宇」についてひとことも否定しない麻生太郎財務相のほうが問題だと思う。
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php
posted at 15:31:31
図書館で確認せにゃ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1106612…
posted at 15:29:24
「清水」「建国」「昭和13年」というキーワードからするとこの書物で間違いないのかな。>RT
posted at 15:28:44
昭和13年発行の『建国』ってコレか? 一言で言って「スジが悪い」。
清水芳太郎著『建国』九州日報社、昭和13年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1106612…
【目次】
親の行者たれ
建國讀本
創作大日本建國
滿洲娘と結婚せよ
曲玉を作りて
日本教
東洋經略の三原則
皇道經濟
Retweeted by 長谷川亮一@望夢楼
retweeted at 15:27:59
孔子紀元はキリスト教紀元への対抗を意識したのかもしれないが、黄帝紀元や檀君紀元は、発想的には神武天皇即位紀元の影響を受けているんじゃなかろうか。
posted at 18:30:19
前に書きかけたものを書き足して公開しました。讖緯説と紀年法について。
posted at 18:22:03
『平泉澄「そのような間違いが出るほど、我が国の歴史は古いので、それはむしろ楽しいこと」』日夜困惑日記@望夢楼|http://clio.seesaa.net/article/413889557.html…
posted at 18:16:15
@ishiwinozomu お返事が大幅に遅れてしまって申し訳ありません。ご教示いただいた文献を読んだ上、史料を読みなおして再考したいと思います。
posted at 13:30:35
@ishiwinozomu さしあたり以上。
posted at 21:38:08
@ishiwinozomu たとえば南鳥島の場合、目視記録は19世紀前半からありますし、単なる上陸記録だけなら1860年代から散発的に存在しますが、日本による領有(先占)や開拓利用を考える上で問題とされるのは、1896年の水谷新六による開拓の着手です。
posted at 21:37:11
@ishiwinozomu 古賀辰四郎の事蹟を検討するのであれば、1884年・85年の上陸(平岡説によれば架空の事件ですが)は一時的なもので、その後いったん中断があったのか、それとも1884年・85年以来継続的に事業が続けられたのか、ということで話が異なってきます。
posted at 21:33:04
@ishiwinozomu あるいは、尖閣諸島利用の歴史を考えるのであれば、個々の上陸記録が偶発的であったり、前後につながりのなかったりするものではなく、長期的に一定の利用傾向があることを示す必要があるでしょう。
posted at 21:29:41
@ishiwinozomu もちろん近代的な領土認識を正当なものと認めた上での話ですが。
posted at 21:26:14
@ishiwinozomu この場合、無主地でなかったことを示すのであれば、「島の存在が知られていた」「上陸記録がある」というだけでは不十分であり、何らかの形で実効支配がなされていたことを示す必要があります。
posted at 21:24:58
@ishiwinozomu もし領土問題について論じるのであれば、問題はただ1点、明治維新以前の尖閣諸島は無主地であったか、従前からの琉球国の版図に属していたか、あるいは清朝の版図に属していたか、ということにかかってきます。
posted at 21:22:40
@ishiwinozomu お返事が遅くなりまして申し訳ありません。私が言いたいのは、「上陸」そのものは目視と同程度の意味しかない、ということです。何を考えるのか(琉球人の領域認識? 領土問題? 古賀辰四郎の事蹟確認?)にもよりますが、上陸目的は何かが重要なのではないでしょうか。
posted at 21:17:20
@ishiwinozomu ただ「上陸」それ自体にこだわるのは、あまり積極的な意味があるとは思えません(島がそこにあることは、古くから知られていたことですから)。むしろ琉球/沖縄側の認識を示す史料が出てきてほしいと思います。
posted at 01:14:39
@ishiwinozomu 確かに沖縄県から内務省への再三の要求を思い起こす限り、古賀の活動によるというよりも、同時期に漁民による複数の活動がなされていたと考えるほうが妥当そうですね。
posted at 01:11:39
@ishiwinozomu ご教示ありがとうございます。寡聞にして当該研究は存じ上げませんでした。文献をあらためて検討した上で少し考えてみたいと思います。でも、古賀辰四郎の1885年(?)の請願書が出てきたとかいう話ではないのですね。ちょっと残念。
posted at 00:27:49
あけましておめでとうございます。
posted at 00:25:13
えっ、『日本国語大辞典』には「パーデレ」の項がないのか!(「パーテレ」で記載。本文に「神父。バテレン。パードレ。」とあるが「パーデレ」無し。)
posted at 05:40:16
こーゆー些末なことばかり気にしてるから文章がなかなか書き進まないんだが、だからといってミスはしたくないんだよなぁ……。
posted at 05:30:26
幕末・明治初期の年代表記は西暦と和暦のどちらを優先すべきかいつも悩む。しかもロシアは当時まだユリウス暦なので、さらに話がややこしくなるし。
posted at 05:27:31
ちなみに国宝としては「大浦天主堂」が正式な呼び名。 http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp…
posted at 04:56:58
大浦天主堂のウェブサイト http://www1.bbiq.jp/oourahp/ では「日本26聖殉教者天主堂」なので、これを採用すべきなのだろうか。
posted at 04:52:41
桐敷真次郎『大浦天主堂』:「日本二十六殉教者聖堂」
『プチジャン司教書簡集』:「日本二十六聖人教会」
『世界大百科事典』:「二十六聖殉教者堂」
『大辞泉』:「二十六聖人殉教記念聖堂」
他に「日本二十六聖殉教者堂」「日本二十六聖人殉教者天主堂」など。
posted at 04:48:46
長崎の大浦天主堂の正式名称は L'Église des Vingt-six Martyrs Japonais というのだけれど(桐敷真次郎『大浦天主堂』中央公論美術出版、1968年)、定訳がないらしく日本語表記が文献によってバラバラ。
posted at 04:47:26