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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

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5,406日(2009/06/11より)
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2018年09月30日(日)7 tweetssource

9月30日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

江戸期の注釈書に対する関心は、知ってる範囲では、台湾だけでなく、韓国やウィーンなんかでも持たれています。まだ大きな潮流とは言えないでしょうが、国際的な関心が醸成されつつある、みたいな感じかもしれません。

posted at 10:06:07

9月30日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

江戸時代に数多く作られた唯識や因明の注釈書は、一部を除くとこれまでの日本の仏教研究では、言わば「ほったらかし」になってきたものです。それが海外の研究者に見出され、「珍稀」な書物としてこうして出版されたことについては、日本の研究者として反省するところが多いです。

posted at 10:01:49

9月30日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

林鎮國・簡凱廷編『近世東亞《觀所緣緣論》珍稀注釋選輯』(佛光、2018)をご恵贈いただきました。ありがとうございます。ディグナーガ(陳那)の著作『観所縁縁論』は、認識対象(所緣)は認識(識)にほかならない、と主張する唯識系の論書。本書は、明代!と江戸時代!の注釈を集成したもの。 pic.twitter.com/h8ebOiabPa

posted at 09:50:44

2018年09月29日(土)1 tweetsource

2018年09月28日(金)8 tweetssource

9月28日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

死体を扱う呪法などは一見、死者への冒涜にも見えるが、仏教はたぶん伝統的に死体に対してはドライで、生きている身体を段階的に死体と入れ替える話などが仏典に散見される。死体に対するドライさに由来する、死体のテクノロジー(というと大げさかもしれないが)が蓄積している。

posted at 15:59:57

9月28日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

同じく山口敦史氏の「異端の書としての『日本霊異記』―仏教教理と殺生」で紹介される「死体を復活・操縦して目標の人間を殺す呪法」である「起屍鬼」(奈良時代の法相宗の学匠・善珠が詳しく記す)も、一種の人工生命の話だよなぁ。

posted at 15:54:41

9月28日

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彌永信美さんの「生きている仏像―「生身の仏像」思想をめぐって」で紹介される立川流の「髑髏本尊」(髑髏で身体を作って、男女の「和合水」をかけ続けることで作る「生身」の仏像)の話って、見方を変えればゴーレム、人工生命の話だよなぁ。おもしろい。

posted at 15:50:53

9月28日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

護山真也さんの「仏教哲学の可能性―無我説をめぐる西洋哲学との対話」は、編集部に推薦して書いていただいたもの。パーフィットやエナクティブ主義などとの「対話」を例に、欧米では仏教哲学が「哲学」している状況を紹介。前のつぶやきは、このあたりを念頭に置いていた。 twitter.com/moroshigeki/st

posted at 15:21:04

9月28日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

拙稿「因明学の過去・現在・未来」は、仏教には因明ってのがあるんですよ、前近代には結構勉強されてたんですよ、みたいな文章なので「ラディカル」でも何でもありません (^_^;) ただ、考えてみれば、『現代思想』みたいな商業誌で「因明」と題された文章が載ったのは初めてかも。

posted at 15:09:36

9月28日

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舩田淳一さんの「中世の死・穢れと神―説話と儀礼に見る神観念の変容」は、神は死の穢れを嫌う(死は仏教の専門)というような常識に対して、墓場の神として死者を救済する春日神などの中世の例を示しながら、中世の宗教的言説のダイナミズムを描き出している。これはいろいろヒントになる。

posted at 15:06:42

9月28日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

北條勝貴さんの「異類の語る仏教伝来―『豊後国風土記』頸峯地名起源譚の背景を読む―」前半では、仏教が人間中心の生命感をトランススピーシーズ的に転換した過程が論じられる。先行する思想・価値観を転換する仏教、という視点は馬場紀寿さんの『初期仏教』ともパラレル。amzn.to/2zAVS2w

posted at 14:58:59

2018年09月27日(木)1 tweetsource

2018年09月25日(火)3 tweetssource

2018年09月24日(月)1 tweetsource

2018年09月23日(日)3 tweetssource

2018年09月20日(木)2 tweetssource

2018年09月17日(月)14 tweetssource

9月17日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

@knagasaki 実は「仏教研究の最先端についてご紹介いただきたい」の答えの一つで、デジタル・ヒューマニティーズの話もしたんですが、それには食いついてました (^_^;) 昔からそうですけど、ごりごりの文献学とコンピュータのイメージが、世間一般的には結びつきづらいんでしょうね、たぶん。

posted at 14:39:48

9月17日

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(上の話は、哲学者を宗教学者や宗教人類学者、あるいは宗教者に置き換えてもたぶん成り立つ(宗教(学)者との共同研究みたいな例をほとんど知らないので「たぶん」)。「ここで法蔵がこう書いているのは、文字通りのことじゃなくて、たぶん何か神的なものが見えたんだと思いますよ」みたいな。)

posted at 13:57:51

9月17日

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@knagasaki もちろんそういうケースもあると思います(逆に、日本でもちゃんと対話している例はあると思います)。ただ(私の観測範囲では)文献学者だけだとよく読めないので哲学者といっしょに読む(文献学者が哲学者の解釈を取り入れる)みたいな研究は、日本ではあまり例がないかなと思います。

posted at 13:53:13

9月17日

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哲学・思想研究において、自然言語で書かれている文献の内容を形式化したりモデル化・抽象化したりするのは重要。それとともに、他の哲学・思想的伝統との比較、それも表面的な比較だけでなく、内的な比較(対話と言ってもよいかもしれない)はとても重要。

posted at 13:42:57

9月17日

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ある論師(たとえばディグナーガとか法蔵とか)の“思想”や“哲学”が、その論師の著作にかかれていること(の一部)と矛盾したり、ずれたりすることはあり得る(著作全体あるいは著者の“思想”等は、著作の部分の正確な読解だけでは明らかにならない)。

posted at 13:39:36

9月17日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

日本の仏教学で弱いな、と思うのは、文献学者と哲学者のコラボレーション。海外だとそういうプロジェクトをよく見る。日本だと、哲学者が「こう読めるんじゃない?」みたいなことを言っても、文献学者が「そんなことは文献には書いていない」みたいなことを言ってしまって、対話終了になったり (^_^;)

posted at 13:32:59

9月17日

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しかし、大学における仏教学の教育は、ご多分に漏れず、アクティブラーニング的な、地域社会に貢献する、みたいなものが増えてきている。それは悪いことではないし、くずし字を読める人を育てても「役に立たない」と言われる社会状況もわかるけど、学問上の戦略的にどうなのかな、とは思う。

posted at 12:40:54

9月17日

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これから半世紀ぐらい、日本の仏教研究が世界をリードしていくとしたら、一つはこの写本研究にリソースをつっこむ、という手があると思う。質の高い、新しい校訂テキスト(あるいはそれに基づく現代語訳)を出版すれば、半永久的に引用され続けるだろう。

posted at 12:36:45

9月17日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

先日、仏教研究の最先端についてご紹介いただきたい…みたいなことを聞かれたので、写本研究、聖教調査がめっちゃ最先端です、みたいに答えたらスルーされた (^_^;) 人工知能ガーとか答えればよかったのかな。世間一般で持たれている「最先端」研究のイメージからずれているのはわかる。地味だし。

posted at 12:30:12

9月17日

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自分の見える範囲だと、現在、世界の仏教学の最先端の一つは写本研究。写本は文献研究・歴史研究の基盤であるため、従来の解釈に大きな影響を与える可能性がある。東アジア仏教研究だと、日本古写経、聖教などの調査が進み、少しずつ地殻変動を起こしつつあり、国際的にも注目を集めつつある。

posted at 12:21:52

9月17日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

(『現代思想』のサイトを見ていたら、ふと「2018年10月臨時増刊号」が二つ(マルクス・ガブリエルと仏教)があるのを知って、同じ月に臨時増刊号が複数あっていいのか、と一瞬思ったが、2017年を見ると「2017年6月臨時増刊号」が3つあったりして、そういうものなのかと思うことにした。)

posted at 00:11:13

2018年09月14日(金)2 tweetssource

2018年09月13日(木)5 tweetssource

9月13日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

仏教における歴史叙述の問題をちびちびと考えていると、西田幾多郎が言う「過去と未来との矛盾的自己同一」みたいなことが起きていて、「そりゃそうだよな」的な感想を持ったりもする。

posted at 23:14:14

9月13日

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師茂樹 MORO Shigeki@moroshigeki

書籍のタイトルでよく見る「サルでもわかる/できる」と「文系でもわかる/できる」って、適応範囲の広い/狭いはあっても、ほとんど同じ意味で使われているような気がする。

posted at 11:51:28

2018年09月12日(水)3 tweetssource

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