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@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

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2021年07月13日(火)11 tweetssource

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

私の生活は、そして あなたの生活も、そんなに単純なものではないでしょう──様々な思いが交錯する生活を送っているのがわれわれの実態ではないか。

posted at 11:07:30

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

われわれの生活は、「事実」の積み重ねであって、スローガンをもってして単純に整えられるものではない、「事実」は複雑なのだから。抽象化されたスローガンを謳うことは、われわれの それぞれの生活を知ることよりも簡単です。

posted at 11:07:12

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

われわれの生活は つねに複雑である、複雑な その生活を単純明快にするにはスローガンを掲げればいい。しかし、スローガンは、必ず或る効果を露骨に謳う、そして必ず誇張がある。

posted at 11:07:01

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

いかなる思想であれ、みずからの思想を最高と思い込んで他の考えかたを排斥する団体・運動を私は嫌悪するし、そもそも徒党を組むこと自体を私は大嫌いです。「若しも理想がスローガンに過ぎないのならば、理想なんか全然持たない方がいい」。

posted at 11:06:48

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

スローガンの効力は、その意味がわからずに それを盲信している人たちにのみ作用するのが行き着く先でしょう。そして、理想がスローガンと結びついて、スローガンの正しさを盲信している人たちは、正義を実践しているという錯覚に陥る。

posted at 11:06:34

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

スローガンの「意味」を文脈のなかで具体化できる人たちは、たとえ当初は合意してスローガンを立案したとしても、それぞれの思いのなかで「意味」を具体化するというパラドックスが起こる。

posted at 11:06:16

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

スローガンに共鳴して集まった人たちの大多数は、その「意味」を外して、ただ機械的に それが指示する対象を「正しい」と盲信している人たちが大多数を占めている。

posted at 11:06:03

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

スローガンは、或る団体・運動の主張を簡潔に表した標語なので、構成員を一致団結するための目的をもつのだけれど、理想に燃えた人たちがスローガンを作っても、そのスローガンの「意味」を具体化できる人たちは極々少数しか存しない。

posted at 11:05:50

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

「自分でものを見て明確な判断を下せる人」は、たとえスローガンが もし示されたとしても、それを自分の「文脈」のなかで検討吟味して、抽象的なスローガンに対して具体的な形を与えて、スローガンが意図しているものが自分の生活に価値をもつものかどうかを判断できるでしょう。

posted at 11:05:30

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

「自分の理想に燃えることの出来ない人はスローガンとしての理想が要る」ということは、理想というものを自分の「文脈」(生活様式)のなかで記述できない人がスローガンの単に指示する名指しを受け身で了引しているということでしょう。現代風にいえば、そんな輩は bot にすぎない。

posted at 11:05:17

7月13日

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佐藤正美@satou_masami

「理想というものは一番スローガンに堕し易い性質のものです。自分で判断して、自分の理想に燃えることの出来ない人はスローガンとしての理想が要るが、自分でものを見て明確な判断を下せる人にはスローガンとしての理想などは要らない」(小林秀雄、「歴史の魂」)。

posted at 11:05:01

2021年06月27日(日)17 tweetssource

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

過去を「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」。しかし、「上手に思い出す事は非常に難しい」。

posted at 14:53:14

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

しかしながら、当時の人たちの思考・感情に参入することは私の力量を超えています [ 民俗学の専門家ではない私には できない ]。当時の事物を復原しても、喩えてみれば、演劇で舞台装置が揃って、舞台が整えられたにもかかわらず、登場人物がいない、というような ひっそりとした舞台なのです。

posted at 14:53:01

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

そして、復原された事物を舞台にして、舞台に立っている人々の思考・感情に参入するためには──当時の人たちが どのような考えかたをして、何を好んで何を嫌っていたかを知るためには──当時の文献を できるだけ多く読まなければならない。

posted at 14:52:46

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

私が復原を愉しんでいるのは、それが漠然たる空想に浸るのではなくて空想を拒絶するからです──なぜなら、それらの事物は過去に実際に存在したのだから。そういう意味では、当時の復原は事物の「発掘」ということかもしれない。

posted at 14:52:34

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

かつてこの世に存在したが今はもう存在しない事物について思いを巡らすとき、我々は空想的になりやすい。しかし、当時を復原するためには、できるだけ多くの史料を集めて「事実」を探さなければならない。

posted at 14:52:20

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

私がそういう動画に興味を惹かれる点は、当時の人々が どのような家に住んでいて、どのような食事をして、どのような服を着て、どのような生活環境(社会生活 [ 街並み、商店街、会社、歓楽街など ] )のなかで生活していたのかという点であって、当時の生活の復原を愉しんでいるのかもしれない。

posted at 14:52:08

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

私は学校で習った「歴史(正史?)」を好きではない、寧ろ民俗学のほうに惹かれる。事物の延長 [ 具体的な事物が占めている空間 ] を欠落した生活空間には私は興味を感じない。

posted at 14:51:55

6月27日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

それらの動画を観ていて、昭和時代初期の動画に映っている人たち [ 大人たち ] は、この世には もういないのだなあという思いを抱(いだ)きながら、画面に映っている人物・事物を隅々まで観ています。

posted at 14:51:44

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

Internet が普及した現代では、YouTube の動画のなかに昭和時代の風景・風俗を記録した動画が数多くアップロードされています。それらの動画を観るのが私の愉しみの一つです。

posted at 14:51:31

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

亀井勝一郎氏・小林秀雄氏を読み込んできた私は、彼らの思想を ふんだんに浴びてきて、彼らの考えかたが私の思考に痕跡をつけたのは確かでしょうね。

posted at 14:51:17

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

亀井勝一郎氏の言う「招魂」の結実が彼の作品「聖徳太子」「親鸞」でしょうね。それらの作品のほかにも亀井勝一郎氏の歴史に対する態度がわかるエッセーとして、「大和古寺風物誌」「美貌の皇后」「廃墟(礎石をめぐつて)」なども私は愛読しています。

posted at 14:51:05

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

小林秀雄氏の これらの意見は、彼と同時代に彼と同じような仕事(文芸批評)をしていた亀井勝一郎氏の思想にも見つけることができます──亀井勝一郎氏は、「招魂」という ことば を使っています。

posted at 14:50:52

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

「僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」(小林秀雄、「無常という事」)。

posted at 14:50:38

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

「歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ」(小林秀雄、「無常という事」)。

posted at 14:50:25

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

「一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた」(小林秀雄、「無常という事」)。

posted at 14:50:12

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

小林秀雄氏のエッセー「無常という事」は短編ですが、彼の作品のなかで世評が高い作品の一つですね──私も この作品が好きです。この作品は、全編を引用文としてもよいと思うくらいの示唆に富んだ作品です。

posted at 14:49:58

6月27日

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佐藤正美@satou_masami

「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ」(小林秀雄、「無常という事」)。

posted at 14:49:43

2021年06月14日(月)6 tweetssource

6月14日

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数学(論理)の「完全性定理」を緩く適用するなら、文芸的に言えば「形が意味を表し、意味は形によって現れる」ということになるかもしれない。文芸では、技術(しかも、最高級の技術)がすべてでしょうね。「情緒より構成を」と、ベートーヴェンが言ったそうです。

posted at 09:08:32

6月14日

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構文論的に証明できることは意味論的に成り立つ(健全性)、かつ意味論的に成り立つことは構文論的に証明できる(完全性)──それが(「論理」に於ける)「完全性定理」です。「完全性定理」とは、簡単に言えば、証明可能性と恒真は同値であるということ。妥当な論理規則のないモデルなど存しない。

posted at 09:08:08

6月14日

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佐藤正美@satou_masami

小林秀雄氏の この文は世上でも有名になっていますが、私にとっては自らの壮年時代を費やして作ったモデル技術 TM の礎石とも言える文なのです。モデル TM は、単に ひとつの公理系(規則)にすぎない。その技術を実データに対して適用してはじめて なんらかの生々しい構造物が現れる。

posted at 09:07:49

6月14日

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佐藤正美@satou_masami

「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」(小林秀雄、「当麻」)。本 Twitter のなかで、小林秀雄氏の この文を私は たびたび 引用してきています。モデル技術 TM の根底になっている考えかただと思っていただいても間違いない。

posted at 09:07:33

6月14日

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佐藤正美@satou_masami

「花伝書」を読むときには「花鏡」も いっしょに読むことを お勧めします。「花鏡」は、「花伝書」の技術的解説書の役割を担った著作です。世阿弥は、「花」を咲かせる種として「技術」を重視しています。

posted at 09:07:19

6月14日

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佐藤正美@satou_masami

「風姿花伝(通称、『花伝書』)」が世阿弥の作であることは学校で教えられるので、ほとんどの日本人は知っているでしょう。しかし、「花鏡」も世阿弥の作であることを知っている人は どのくらいいるかしら。

posted at 09:07:01

2021年05月31日(月)18 tweetssource

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

われわれ凡人の告白は、じぶん自身に どこかで媚びている、われわれの告白など此(こん)な所が此(こん)なものでしょう。

posted at 13:14:42

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

じぶんの精神を じぶんが客観視できるには そうとうな言語技術がもとめられる──ドストエフスキー氏のような天才にして はじめて できることでしょうね。

posted at 13:14:31

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

もし、膨大な事例を分析して、精神の動きのパターン(傾向)を得たとしても、そのパターンを前提にして演繹によって論を構成できない──「美しい花がある。『花』の美しさという様なものはない」(小林秀雄、「当麻」)というのが「条件症候群」に対する簡潔な警告でしょうね。

posted at 13:14:13

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

仮に、精神を動かす条件を列挙できたとして、それらの条件を揃えても精神は同じ動きをするとは言い切れない、というのは同じ状況下に置かれた複数の人たちが それぞれ異なる反応を示すので。

posted at 13:14:00

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

しかし、「意識(精神)」(の動き)は、存在するけど説明できない、あるいは説明できないけれど存在する。つまり、「意識(精神)」の動きは「論理的」ではない、ということです。

posted at 13:13:48

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

外部からの刺激に誘発されて浮かぶ精神の動きを、そして、その動きが次々に波動を成して辿り着く先を できるかぎり精確に記述していく、私の中で起こるその精神の動きの行き先は私にも わからない、わからないから文を綴りながら精確に追ってゆく。

posted at 13:13:17

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

私がそう述べているからと云って、私は唯物論を信奉している訳ではない、想像力 [ たとえば、頭のなかで想像した恐怖 ] が身体に作用することも起こり得る。身心一体というのが私の考えかたです。

posted at 13:12:37

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

しかも、その電気パルスの発生は、それぞれの人によって、その質・量がちがう。その質・量のちがいは、それぞれの人が親から継承してきた遺伝子および この世に誕生して以降の体験に因るのでしょうね。

posted at 13:12:24

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

意識(精神)は電気のパルス(impulse)なのでしょうが、人体について私が驚嘆していることは、細胞・神経・骨・筋肉の物理的作用が電気パルスを発生させて「意識(精神)」を産むという点です。

posted at 13:12:07

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

生理学・医学は細胞・神経・骨・筋肉などの具体的な事物を対象にして、それらの構造や作用を明らかにすることができるけれど、それらの部位が成す肉体のなかで意識(精神)が どのように生成されるのか、その生成過程のすべてを ときあかすことは生理学・医学の技術が発達した現代でもできていない。

posted at 13:11:53

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

精神と云われるモノは、その範囲・境界を明確に限定することができないし、その運動を構成するエレメント(パラメータ(変数))を特定する(identify)ことができないので、その構造を考えることができないままに その運動の印象を記述するにすぎない。

posted at 13:11:42

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

私は、自らの精神の運動をできるだけ精確に記述しようと思って、Twitter を綴っていますが、あくまで そのときに感じた印象を記述しているにすぎないというふうに見切っています。

posted at 13:11:27

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

肉体と精神を切り離して、精神を事物化して観察することは あくまで「(精神の)印象」を記述しているにすぎないのであって、生理学・医学の人体検査に比べて そもそも検査精度が桁違いに低い。

posted at 13:11:14

5月31日

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佐藤正美@satou_masami

「自己を客観的に観る」という嘘っぽいことを真面目くさって云っている人たちもいますが、私は そういう人たちを 全然 信用しない。生理学・医学であれば、人体を事物として対象化することはできるでしょうが、およそ 精神 (知・情・意) を対象にしたとき客観的に観られる訳がない。

posted at 13:11:02

5月31日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

告白は、じぶん自身に向かって [ じぶん自身を相手に ] するしかないのではないか。それが soul-searching ということではないか。そして、「自分自身の嘘を信じないことである」。

posted at 13:10:36

5月31日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

われわれは公にみずからを少なからず晒しているのだけれど、どこまでを晒すかは自分なりの目安を意識的にしろ無意識的にしろ立てているでしょう。そして、われわれは他人の告白を或る程度まで傾聴できるが、その他人事を自らが丸々抱え込んで共有する [ 己れの実感とする ] のは嫌なのではないか。

posted at 13:10:23

5月31日

@satou_masami

佐藤正美@satou_masami

みずからの意識が見物客になって、みずからの意識の演戯を観て批評することが いかに難しいか。しょせん 告白は一人芝居といえば、そうなのかもしれない。そのときに、みずからに偽りなく告白できるか。みずからを悲劇の主人公にしていないか、告白している じぶん自身に酔っていないか。

posted at 13:10:02

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