「自分の力で夢を創造する幸福も勇気も忍耐も失って」(小林秀雄、「現代文学の不安」)他人への感情移入でしか感動を味わえないという状態は、カタルシスの一形態でしょう。酔いたいのだ、少なくとも、じぶんが生きるという覚悟ではないでしょうね。
posted at 20:19:07
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「自分の力で夢を創造する幸福も勇気も忍耐も失って」(小林秀雄、「現代文学の不安」)他人への感情移入でしか感動を味わえないという状態は、カタルシスの一形態でしょう。酔いたいのだ、少なくとも、じぶんが生きるという覚悟ではないでしょうね。
posted at 20:19:07
幸いにも、そういう自意識に抵抗する(あるいは、反撥する)作用として文学が私を救護してくれてきました。文学に接していなかったら、私は確実に絶えていたでしょう。
posted at 20:15:59
そして、もうひとつは、私の考え自体が他人(ひと)の考えを借用しているにすぎないのではないか――私自身が「機械」になっているのではないか――という恐怖感。
posted at 20:14:09
そういう世のなかで、私は、次の2つの自意識を強烈に抱いてきました。ひとつは、「機械」に囲まれている私は a cog in a big wheel(歯車)にすぎないのではないか――私など存在しなくても、他の代用品は存在する――という疎外感。
posted at 20:12:25
「自然と人間とはもはや対立してはいない、その間に機械がはさまってしまった。人を支配するものは自然の法則ではない。機械の法則である」(小林秀雄、「現代文学の不安」)。
posted at 20:08:02
文学作品を読んでいて、私が最近になって やっと わかってきたこと として、私が作品に対して感じる魅力は、ストーリーではなくて、作家の「文体」だということです。ストーリーは一回読めばわかる。でも、「文体」は幾度読んでも惹かれる。そして、「文体」は、文字通りに、借り物ではない。
posted at 21:56:00
「文学の抽象的大通りを疾駆する、理論で武装した贅沢極まる乗物に、石こそぶつけたが、乗った事は一っぺんもない」(小林秀雄)ように私も配慮してきました。そして、自分の文体を表すことが いかほどに難しいかも私は思い知っています。心を正直に綴ればいいというものでもない。
posted at 21:38:01
そして、私は、文学の怖さも知っているつもりです。すなわち、いったん、文学に足を入れたら、「二度(ふたたび)素(もと)の白地になる事なし」と。この点も、言語の特徴でしょう。言語は感性・思考と同体だから。
posted at 21:34:31
私は、自分に文才のないことを知っているつもりなので、私が「文学青年」であるといっても、いつも自分を教育するために、他人の事を喋った(天才の文を真似た)にすぎない。
posted at 21:32:17
今まで、誰も気がつかなかったような「奇抜な・向こうを張ったような」意見ではなくて、誰でもが知っている [ 平凡な・自明な ] ことを述べたが故に、かえって反感を喰らうか(あるいは、書いてもいないことを)深読みされるかの いずれかが生じることを事前に覚悟しておいたほうがいい。
posted at 21:29:29
「特に批評家というものは、事実があんまり平凡だと旋毛(つむじ)を曲げます。そして色々複雑な事を言っています。だが言ってみるだけだ。何故かというと、こんな単純な問題は言葉の上の遊戯でもしてみなければ、何も言う事はないからです」(小林秀雄、「文芸批評の科学性に関する論争」)。
posted at 21:25:54
人生(現実の生活)に対して真摯に向かって人生を描くことにおいて作家たらんと意識していれば、作家がみずからの生活理論・制作理論を一色(ひとつの主義)で塗り潰す訳がない――もし、作家が みずからの眼を ひとつの視点で固めたのであれば、作家たることを辞めたのである。
posted at 21:22:25
「作家が現実をどのくらい細密に描写するかという事は容易な問題である、あるいは容易でないかも知れぬが、作家がその現実追求を、『どの点で制約するか』という事情に較べたら遥かに容易な問題だ」(小林秀雄、「心理小説」)。
posted at 21:17:48
「果して他人(ひと)を説得する事が出来るものであろうか。若(も)し説得出来たとしたら、その他人は初めから、説得されていた人なのではないか」(小林秀雄、「物質への情熱」)。
posted at 21:15:20
「精神は精神に糧(かて)を求めては飢えるであろう。ペプシンが己れを消化するのは愚かであろう。『私は考える、だが考える事は考えない(ゲーテ)』(小林秀雄、「マルクスの悟達」)。
posted at 21:12:58
「真実の主体は、依然として頭の外にその独立性において存在する」(小林秀雄、「マルクスの悟達」)。
posted at 21:10:32
いっぱいの「概念」で穢れた小悧巧な頭には、「現実」も「困難」も「努力」も わからない。そして、当たり前のことがなんと容易な、また困難なことであるか。
posted at 13:35:45
「考えるな、観よ!」(ウィトゲンシュタイン)という ことば は、やっぱり、天才にしか言えない警句でしょう。そして、それは平凡な ことば なのですが、、、。
posted at 13:32:36
「人は余りに自明な事は一番語り難いものであり、また語るを好まぬものである。彼らの抱いた認識の根本的基底について暇人のみがその認識論的基礎づけのために騒いだ、そしてさわぐ事だけしかしなかった。暇人には自明という事が一番わかりにくいものである」(小林秀雄、「マルクスの悟達」)。
posted at 13:29:49
「平凡にしか言えないのだ。平凡な真実が目立って見える時は、嘘に対して叛逆的に現れる時に限る」(小林秀雄、「マルクスの悟達」)。
posted at 13:26:09
「この世はあるがままにあり、他にありようはない、この世のあるがままであるという事に驚かぬ精神は貧困した精神であるという事である」(小林秀雄、「マルクスの悟達」)。
posted at 13:24:27
「奇体な真理を探り当てるのは愚かであり、真理とはもともと凡人に造作もなく口真似が出来る態のものしかない、という事を悟る事が天才なる所以であるからこそ、虫をこらえているのである」(小林秀雄、「マルクスの悟達」)。
posted at 13:22:44
「天才というものも、この世に生まれている限り、凡人と同じ構造の頭脳を持つ外はない。この自然の恩恵により凡人は天才の口真似が造作なく出来る、つけ上がった挙句天才なんぞいないなどという寝言を言う」(小林秀雄、「マルクスの悟達」)。
posted at 13:19:35
そして、エロスには、なにがしかの「悲劇(危うさ)」が付帯するようです。
posted at 14:08:35
30年・40年を徹して熟練した人こそ、信用できる人だと私は思っています。たとえ、その人が黙っていても存在感がでるのではないでしょうか。そして、そういう状態にある人は、醜悪な(あるいは、俗な)物を拒絶するでしょう。なぜなら、エロスは「うつくしい」物を産むことと同値だから。
posted at 14:07:56
「魅力(艶、色気)」というのは、たぶん、咀嚼された教養が滲みでた生々しい状態なのではないかしら。そして、死んだ「概念」のみなら辞書類のなかに たんと収められているでしょう。
posted at 14:04:56
ふつうの言いかたなら、学習すればするほど「つまらない」人物になって「魅力がない(あるいは、艶がない、色気がない)」と云うこと。ところが、その状態を「客観的である」と糊塗(こと)するに至れば始末が悪い。
posted at 14:02:24
専門家として、なにがしかの物を作る仕事では、「作る」という意味において――あるいは、「産む」という意味において――、なんらかのエロス [ プラトン的エロス ] が、必ず、そのひとの雰囲気のなかに燻(くゆ)り立つはずですが、それを感じられない状態が「乾涸びた状態」でしょうね。
posted at 13:59:59
「一概念のために人間性を捨てて乾涸びる」という現象は、一つの主義を盲信しているひとが陥る罠ですが、ほかにも、専門家と称されるひとが往々にして陥りやすい状態でしょう。
posted at 13:55:44
「この男の頑固な良心的一概念、なるほど、この男のように必死に守れば概念も悲劇性を帯びるであろうが、概念はあくまで概念だ。この一概念のために人間性を捨てて乾涸(ひから)びるとは悲しい事だ」(小林秀雄、「物質への情熱」)。
posted at 13:53:58
「ささやかな美に溺れても、溺れ切った人は、傍人のうかがい知れぬ現実の形を握るであろう。一見感傷的な歌も、達人の歌は底知れぬ苦さを蔵する所以である。名人は危きに遊ぶという、真実とは常に危いものであるらしい」(小林秀雄、「物質への情熱」)。
posted at 08:46:44
愛があるところには、かならず、対象に関しての「発見」があるはずです。ただ、「情熱」は、対象の美しさだけを発見するのではないのであって、美しさと同時に醜さを発見するかもしれない、、、。他人(ひと)には見えない物が見えすぎるというのは不幸なことなのかもしれない。
posted at 08:43:02
「詩人は美しいものを歌う気楽な人種ではない。在るものは、ただ現実だけで、現実に肉薄するために美しさを頼りとしなければならないのが詩人である。女に肉薄するのに惚れるという事を頼りにするのが絶対に必要なようなものである」(小林秀雄、「物質への情熱」)。
posted at 08:40:32
「情熱」の伝わってこない文は、たとえロジックが完璧であっても、なにかしら、行間には「こんなの ちょろいもんさ」という小悧巧さを感じることが多い。
posted at 08:36:26
徳のあるひとに較べて悪人のほうが断然に魅力がある。悪事のほうが魅力的(浪漫的)です。そのために、二流(あるいは贋物)は「偽悪者」を装う。そんな見せ掛けの疵を多数持っていても、毛頭、勲章にならないでしょうね。一流(あるいは本物)は、かならず、「堂々と堕ちている」。
posted at 08:33:58
巧妙な誘惑とは、罪を知りながら自分を責めつつ、自分を責めることを免罪符にして誘惑する。その意識は、いっそう悪事の興奮をそそる。その臭いを嗅ぎつけたとたんに、私は悪口が反吐のように込み上げてきます――「欺瞞を欺瞞するような手口を使うんじゃない、堂々と堕ちなさい」と。
posted at 08:29:49
「実生活」から観れば「象徴の現実」(芸術)は滑稽にしか思えないし、「象徴の現実」(芸術)から観れば「実生活」は滑稽にしか感じられないでしょう――とうとう、ふたつの世界(「実生活」と「象徴の現実」)は、どこまで延長しても、平行線のままでしょうね。
posted at 19:26:50
芸術的生活なんて戯言だって? 強烈な恋愛をしてみればいい――そのときには、だれもが実生活のことなど忘れて愛しあっているでしょう、ただし、世間の眼には、逆上(のぼ)せた痴情に見えるでしょうね。世間の眼で観れば、「芸術」の性質も それと同じでしょう。
posted at 19:24:04
私は文学愛好家として芸術を観ていても「芸術と実生活は、『住む世界がちがう』という感を抱いています。そして、「芸術が何か実生活を超えた神聖物とみなす」ような態度に対して――あるいは、芸術鑑賞を「教養」だとみなす態度に対して――私は嫌悪感を覚えます。
posted at 19:20:59
「二十年間も小説家でゐながら、自分の書いたものが死や破壊はおろか、読者に風邪一つ引かせることができなかつたといふことに、気づかない人間がゐるとしたら、まづ正真正銘の馬鹿者である」(三島由紀夫)。
posted at 19:16:24
「実生活に追われて人々は芸術をかえりみないのではないのだ。生活の辛酸にねれた心が芸術という青春に飽きるのでもないのだ。彼らは最初から、異なったこの世の了解方法を生きて来たのだ。異なる機構をもつ国を信じて来たのだ。生活と芸術とは放電する二つの異質である」(小林秀雄)。
posted at 19:13:50
「それより人々は実生活から学ぶ方がよっぽど確かだ。事実人々はそうしている。実生活で鍛え上げた心が、どうして芸術なんかを心底から味わう。鼻であしらうのは彼ら当然の権利である」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。
posted at 19:10:47
「『芸術を通じて人生を了解する事は出来るが、人生を通じて芸術を決して了解する事は出来ない』と。これは誰の言葉だか忘れたが或る並々ならぬ作家が言ったことだ。一見大変いい気に聞えるが危ない真実を貫いた言葉と私には思われる」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。
posted at 19:08:19
「実生活にとって芸術とは(私は人々の享楽あるいは休息あるいは政策を目的とした作物を芸術とは心得ない)屁のようなものだ。この屁のようなものとみなす観点に立つ時、芸術というものを一番はっきりと広く浅く見渡す事が出来るともに、一番朦朧と深く狭く覗く事ができる」(小林秀雄)
posted at 19:04:49