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2024年01月02日(火)65 tweetssource

1月2日

@t_hayashi

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@7danmoroboshi 「概念そのものの記述」ということで何がいみされているかによりますが、その概念がどういう関係性において使用・認識されているかが明確化できるだけでもだいぶクリアになる部分はあるとおもいます。

posted at 21:00:33

1月2日

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@7danmoroboshi 形式化をする過程である概念の明確化がなされる期待があるということと、その形式化の結果を処理するのはかならずしも人間である必要はないという理由で、ぼくは形式化はがんがんすべしとおもっています。帰納的推論の部分にかんして、そこまで形式化になじまないものでしょうか?

posted at 20:57:56

1月2日

@t_hayashi

はやし@t_hayashi

@7danmoroboshi とちゅうで投稿してしまいました。ゆえに、そくらてすさんの認識に大過はないとおもうのですが、関係性の網の目である語をとらえるという試みは、哲学の述語にかんしてもっとなされてもいいとおもっています。(哲学のオントロジーをつくる試みはないではないですが、まだまだ足りない)

posted at 20:51:13

1月2日

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@7danmoroboshi 頻出概念にかんしてはざっくりとではあれ「何をいみしているか」についての共通概念は設定できれば、ぐらいの動機でしょうか。「何が基底概念か」にかんしては、その次の段階の話になるとおもいます。

posted at 20:37:12

1月2日

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@Nr2YcdmDGE53729 @fujitapiroc1964 @wagatsukireizen @squawai 学術の分野は学制的にいろいろな学部や学科にわかれてはおれど、それらは本源的に硬直的に区分できるものでもないので、学問の「際」をこえて協力関係がきずければいいんでしょうが、じっさいにはなかなかむずかしい。でも、個人的にはいろいろな分野から「いいとこどり」をしたいとおもいます。

posted at 20:34:15

1月2日

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@Nr2YcdmDGE53729 @fujitapiroc1964 @wagatsukireizen @squawai 「学際的」という言葉がありますが、本源的に学問というのは学際的なもので、ぱっと見あまり関係がないような分野でもつかえる知見はつかえばいい。とくに哲学なんかは形式化になじまないではないわけで、その方向性をさらにおしすすめれば見とおしもよくなるだろうとかんがえる次第です。

posted at 20:23:08

1月2日

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@fujitapiroc1964 @Nr2YcdmDGE53729 @wagatsukireizen @squawai 数理論理学や計算機科学でいう形式言語にかぎらず、議論をしている両者のあいだに何か共通認識がえられればいいんですが、そのためには、あるいていど数理論理学あるいは計算機科学でいわれるような形式言語に範をとったものを想定するのがよいとはおもっています。

posted at 20:19:54

1月2日

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@wagatsukireizen @fujitapiroc1964 @squawai @Nr2YcdmDGE53729 また、「(ここで議論されている、あるいはすべき)形式言語は静的なものではなく、研究や議論の進行とともに変化する動的なものなのかもしれません」というのはおっしゃられるとおりで、議論の進行につれ、形式化とその自然言語での正当性表明がいりまじることになるのは不可避とおもわれます。

posted at 20:13:10

1月2日

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@wagatsukireizen @fujitapiroc1964 @squawai @Nr2YcdmDGE53729 「現在の哲学自体がそのような形式化を目指す運動なのではないか」ということについて、哲学の現場に身をおいている人間としては、「そんなことはないんじゃないかなあ」とおもいます。そして、基本概念の共通認識をえることにかんしても、ぼくはあくまで「スタートにすぎない」とおもっています。

posted at 19:55:31

1月2日

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自分が経験して「いやだなあ」とおもったことはそれを後世にのこさないようにしたほうがいいとおもうのだけど。

posted at 19:30:31

1月2日

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年配者の使命というものがもしあるとすれば、自分がしてきたいらぬ労苦を年わかい人たちにはさせないようにすることがそのひとつだとおもうのだけど、じっさいはそういう労苦を再生産しようとする年配者がいる。よくないことだとおもう。

posted at 19:29:18

1月2日

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まとめていただきました。藤田さん、および議論にかかわっていただいたみなさん、ありがとうございます。

posted at 19:13:26

1月2日

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このようにいうと、いかにも薄っぺらな道徳の教科書風にひびくかもしれないけど。でも大事だよ。

posted at 19:08:55

1月2日

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ぼくは、ぼくのかんがえることにかんして、それをかんがえている時点では「ただしい」とおもっている。でも、その「ただしさ」の絶対性については、いつも留保しようとおもっている。

posted at 19:07:35

1月2日

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稲葉振一郎さんが立岩真也さんについて、その「おれはもしかしたらまちがってるかもしれない」という姿勢がつねにあることを評価していたけど、そういう姿勢はとても重要におもう。

posted at 19:05:42

1月2日

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つまり、自分が「こうである」とおもったことをいうだけではなく、それにたいする反論を頭ごなしに否定するのではなく、きちんと検分すること。当たり前のことではあるけど、じっさいにそれを実行しようとするとなかなかむずかしい。それができるようにならなければいけない。

posted at 19:04:34

1月2日

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Nizi Project Season 2 をみていて、J.Y. Park さんが「真実・誠実・謙虚」ということをくりかえしいっていたのだけど、これは学問においても必須なことだよなとおもった。

posted at 19:02:27

1月2日

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@fujitapiroc1964 @squawai わかります。何というか、自分の考えをはやくつたえたいあまり、指があせってしまう。ぼくとしては(ねがわくば)藤田さんのおっしゃれれるところは(それなりに)じゅうぜんにわかっているつもりですが、藤田さんが「誤解されてるな」とおもわれる点があればご指摘ください。

posted at 18:48:49

1月2日

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自然災害や戦争にまきこまれて死んでしまう人びとはいうのおよばず、そもそもの環境的要因で年わかく死んでしまう人びとがたくさんいる。そういう人びとのことをおもうと、ぼくはきえてなくなってしまいたくなる。

posted at 18:46:13

1月2日

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@fujitapiroc1964 @squawai 法証明論、じつは昔日興味があり、すこしかじったことがあるのですが、いまとなってはほとんどおぼえていません……。何であれ、学問分野によって「正しい」とされることの判断基準がかなりことなるなとおもった覚えがあります。

posted at 18:43:21

1月2日

@t_hayashi

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どういう理由によるのであれ、自分の意思にはんして死んでしまうというのはぼくは絶対的な悪であるとおもっている。その要因がたとえ自然災害であったにしても。

posted at 18:37:59

1月2日

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@fujitapiroc1964 @squawai どういう学問であれ、自分のやっていることがいくばくなりともその知見をひろげるようなものであってほしいとおもっているとおもいます。その知見をひろげるにはどうすればいいか。ぼくはじゃっかん教条的になっているきらいがあるので、色んな人の意見をききたいです。

posted at 18:33:46

1月2日

@t_hayashi

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@fujitapiroc1964 @squawai 饗宴だったらいいのに──ほんとうにそうです! 哲学にかぎらず、学問というのは自説が反駁されたにしても、それはその当該学問にとっては「進歩」であって、そういういみで「win-win」なはずなのですが、当事者としてはそういうふうには解釈できない場合もあり、むずかしいですね。

posted at 18:27:49

1月2日

@t_hayashi

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@fujitapiroc1964 @squawai そういう地点は「想像上の楽園」にすぎないかもしれませんが、でも、表面上の言葉の相違でおたがいにいがみあうより、「ああ、そういうことであればたしかにおれのいうことはまちがってるかもなあ」とすなおにおもえるような基準があればなと、切実におもいます。

posted at 18:09:47

1月2日

@t_hayashi

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@fujitapiroc1964 @squawai えられないでしょうね。あと、形式言語とはいえけっきょくは、それがどのようにもちいられる(解釈される)かをさだめるのは、最終的には自然言語(および形式化以前の世界の受容意識)依存になってしまう部分もおおきいので。でもぼくは、考えの疎通のためにやれることはやりたいとおもいます。

posted at 18:06:43

1月2日

@t_hayashi

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@fujitapiroc1964 @squawai 藤田さんのいうこともすごくわかるんです。でも、哲学の論戦をみていると、「そもそもの基底概念のすりあわせがうまくいってないんじゃないか?」とおもうことがけっこうあるんですよね。だから、もそういう基底概念にかんしてはクリアな形式的定義をある程度したほうがいいのではとおもうんです。

posted at 17:58:17

1月2日

@t_hayashi

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@fujitapiroc1964 @squawai もちろん、一方的な押しつけはよくありません。でも、どのような言語であれ、ある言葉をどのようにもちいるかについての共通概念は必要であり、それについての同意や、あるいは反意の道程を容易ならしめる手段のひとつとして形式化はそれほどわるくないのではないかとおもうのですが、いかがでしょう?

posted at 17:54:58

1月2日

@t_hayashi

はやし@t_hayashi

@fujitapiroc1964 @squawai 一哲学徒として、そもそもの基本概念のすりあわせの段階で失敗してるんじゃないかという場面をおおく経験してきたがゆえ、とりあえずの「共通概念の土台」みたいなものを夢想しているのかもしれません。そういう土台があれば、無用な論戦とか必要ないのにとおもうのですが。

posted at 17:52:07

1月2日

@t_hayashi

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@squawai @fujitapiroc1964 どこに多義性を残存させどこで多義性を縮減させるかという形式化以前のもんだいがあるとおもいます。もちろん、そのような形式化以前のもんだいにかんしてはむずかしいところがありますが、そういう点についてもある程度「共通言語」を設定することによってすりあわせができないかとぼくは夢想します。

posted at 17:48:50

1月2日

@t_hayashi

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@fujitapiroc1964 @squawai ぼくも、ある議論を形式化すれば万事解決とはおもっていません。それでも(直前のツイートのくりかえしになりますが)やらないよりはましじゃないかとおもうのです。

posted at 17:42:18

1月2日

@t_hayashi

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@fujitapiroc1964 形式化によって曖昧さが完全に回避できるとはおもっていません。(そもそも、どんな概念についてでも、その形式化のやり方の是非について議論がでるとおもう)でも、形式化することによって回避できる曖昧さもすくなくないともおもうのです。

posted at 17:41:11

1月2日

@t_hayashi

はやし@t_hayashi

@squawai @fujitapiroc1964 ようするに、ある概念にかんして、その定義に同意するにせよ反対するにせよ、そもそもその概念の定義に「同意」や「反対」することの根拠がクリアになってほしい。(さもなければ、堂々めぐりになりかねない)そういう議論の下地として、形式化はわるくない手段だとおもうのですが、どうでしょう?

posted at 17:37:59

1月2日

@t_hayashi

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@squawai @fujitapiroc1964 ぼくが意図していた「形式化」とは、単純化していえば形式言語(たとえばプログラミング言語)であらわすというようなことをかんがえていましたが、それ以前に、基底的概念(たとえば「存在」とか)にかんして、ある程度「同じ言葉」でかたりうるプラットフォームは最低限ほしいとおもいます。

posted at 17:34:56

1月2日

@t_hayashi

はやし@t_hayashi

このようにいっておもったけど、形式化以前に、オントロジーをしっかりと整備するということのほうが重要かもしれない。

posted at 17:30:02

1月2日

@t_hayashi

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@fujitapiroc1964 ああ、そういうことであれば、それは「で?」という感じがしますね。ぼくが意図していたのは、そういう表面上の「表し方」にかかわることではなく、意図したことをいかに曖昧性や多義性なくつたえるにはどうすればいいかということでした。

posted at 17:29:02

1月2日

@t_hayashi

はやし@t_hayashi

すべてプログラミング言語でかかれた哲学書とかどうか。(基底的概念にかんしてはオントロジーをつくる)

posted at 17:20:49

1月2日

@t_hayashi

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@wagatsukireizen 形式化したとしても曖昧性/多義性は残存してしまうとおもうのですがそれでも形式化しないよりは無用な曖昧性/多義性は縮減できるとおもうのでやれることはやったほうがいいんじゃないかとおもっています。(ただ形式化の副作用として一般受容性もかなり縮減してしまうであろうのでそこはむずかしい)

posted at 17:09:56

1月2日

@t_hayashi

はやし@t_hayashi

それだと形式をこえる事がらが記述できないって? そんなん、本源的に形式化をこばむような議論を用意してからいえってんですよ。

posted at 16:45:50

1月2日

@t_hayashi

はやし@t_hayashi

ぼくは過激派なので、学的言述は何らかの形式言語で記述したほうがいいのではないかとすらおもう。

posted at 16:44:20

1月2日

@t_hayashi

はやし@t_hayashi

哲学にかぎらず学的な言述は、あたうかぎり曖昧性/多義性を縮減させるような法律書的書き方をするべきとおもう。

posted at 16:42:08

1月2日

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はやし@t_hayashi

飯田隆さんはカルナップの書きものについて「法律書のようでちょっと苦手」ということをいっていたけどぼくなんかは「そこがいいんじゃん!」とおもう。

posted at 16:36:24

1月2日

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はやし@t_hayashi

お酒のみながらよしなしことどもに熱弁ふるってたら娘に "Dad, you're too logical" といさめられた。

posted at 07:33:23

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